ごあいさつ

神々が棲む島バリ島。かつて店主夫婦は転勤のため4年間バリ島に住みました。いつ訪れても、やさしく迎えてくれるバリ島の魅力をお伝えしたいと思います。バリ島に興味がある方、どうぞいつでもお話しにご来店ください。インドネシア語も少しは教えられますよ。

バリ島で旅行社、ヴィラ、エステなどを経営する、家族同様の友人のサイトをご紹介します。

バリ島専門旅行会社パルテンツァ http://www.partenza.jp/

ヌサギアグループ http://www.nusagia.com/

スーパーマーケット(May 99)

私がここでしなければならない家事といえば、食事作りと洗濯、アイロンくらいだ。掃除は週2回アパートのハウスキーピングが入る。

娘と夫が出かけると私には時間がたっぷりある。何をしてもいいし、何もしなくてもいいというこのぜいたく。しかしとりあえず食事のための買い物はしなくてはならないので、まずバリでめぼしいと思われるスーパーマーケットを巡ってみることにした。

夫の単身赴任8ヶ月間の知識と在バリ日本人の方から教えてもらった情報をもとに一日ひとつ店をまわる。時間がたっぷりあるとはいえ、運転手さんは7時から4時。そのうち7時から8時、2時から3時は娘の送り迎えに行ってしまうから、私が運転手を使うのは大体10時から1時が多い。

ヘロー、マタハリ、ティアラデワタなど大きなスーパーマーケットはデンパサールにある。日本人の間ではヘローが一番人気のようだ。生鮮食品が一番フレッシュでカリフォルニア米「国宝」も置いてあるからだ。買い物はここ、と決めている日本人も多いようだ。私も、なるほどここなら大根もきれいなのが売っているしコーヒーフィルターも見つかったし、入口のパンやさんのパンも喫茶のコーヒーもおいしいし、とヘローを行きつけにしようと思った。

ところがティアラデワタへ行ってみて考えが変わった。こちらの方がおもしろい。どうおもしろいかというと、まずとっても大きくて人がたくさんいて(店の人も客も)活き活きとしているのだ。ヘローのように‘高級品’を置いておすまししているという風はなくて、地元の人達がにぎやかに毎日の食材を選んでいる。果物、野菜、肉、魚の種類も豊富だ。こんなにでっかいパパイアがたった3000ルピア?と思うと1個50,000ルピアもするりんご‘むつ’まである。見ていて飽きることがない。

お客が多いので品物の回転もいいようだ。また、ここには調理したお惣菜も計りで売っている。一度ナシブンクスを食べてみたかった。バナナの皮様のものに包んだのが3種類あったので「イニ ナシ?」(これはごはんですか)と覚えたてのインドネシア語で聞くと「ブカン、サユール」(ちがう、野菜です)と言う。その日はたまたま胃腸の調子が悪かったので買うのをやめたが、いつか買ってみようと思う。道端のワルンで買う勇気はまだないが、ティアラデワタのおそうざいなら大丈夫だろうという気がする。というわけでティアラデワタは私のいちばんのお気に入りスーパーマーケットとなった。

フルーツ

市場に並べられた果物

マタハリはデンパサールとクタにある。スーパーというよりもデパートで特にクタの方は観光客向けのおみやげ品が多いように思った。

まとめ買いにいいのはマクロかアルファだ。いわゆるウエアハウスだ。マクロは会員制をとっていて最初に30,000ルピアを出して(家族カードは15,000ルピア)カードを作る。ビールやコーラを買うとびんはリターナブルで空になったのを持ってきて返せばお金が戻ってくる。またキャッシャーで袋をくれないので350ルピアで買うか持参する。この2つの点は気に入った。日本でマイバッグを持ち歩いてスーパーのビニール袋を拒否していた私としてはマクロに限らず袋を持参する。他にそんなことをしている人は誰もいないので最初は勇気がいったが ”I don't like to waste bags. I have many at home"というと、トラギアのキャッシャーさんはにこっと笑って”Thank you"と言ってくれた。

アルファも巨大で何でもあって面白い。マクロより近いのでコーラやビールもここで買うのがいいなと思ったが、ここはボトルの返却もさせてくれないしケースもつけてくれない。コーラとビールを全部ケースからダンボールに移されてしまってびっくり。ケースを買いたいというとそれはできないという。ボトルを返せないなら買った人はどう処分しているのだろう。私はアパートのハウスキーピングに回収してもらえばいいけど。いやその回収されたボトルの行方もこんど聞いてみなければならないだろう。

トラギアは自転車でも行ける近所だ。品揃えは多くないが近いということがいい。 コスモという日本食品店があるが、品物も少ないしこれといってほしいものがない。賞味期限がきれたものも置いてある。ルピアに慣れてしまうと高い日本食品を買う気がしなくなるから不思議だ。なかったらないでいいという気になる。
(注: 1円≒65ルピア

(May 99)

私がバリへ来たのは雨季の終わりだった。いつもなら4月になると乾季に入るのに4月10日になっても15日になっても雨が降っていて、だれもが「今年は雨季が終わるのが遅い」と言っていた。日本の「梅雨明け宣言」みたいなものがここにあるのかどうかは知らないが、20日すぎにはもう雨が降らなくなってきた。

インドネシア語で四季を表す言葉は musim bunga(春) musim panas(夏) musim gugur(秋) musim dingin(冬) であるが、実際にはここではmusim panas(乾季) とmusim hujan(雨季) しかない。私達はバリへ来てまずその変わり目を体験したわけだ。最初はよく雨が降った。雨が降ると涼しい。テラスに座って読書していると気持ちがいい。緑が多いので降る雨が少しもじゃまにならない。緑が雨をしっかり飲みこんでくれているのを感じる。

カンブジャンという白い花がテラスの横に繁っているが、この蔓の伸び方が異様に早かった。2,3日ほうっておくと物干し台にからみついている。表に置いた自転車は一晩で2まきくらい蔓が巻き付いていた。生命力の強さをみせつけられる。

フルーツ

バナナの花

花は雨季の方が多いがブーゲンビリアだけは乾季に多いと教えてくれたのは高山さんのところのpembantu(お手伝いさん)のティナさんだ。ブーゲンビリアはbunga kertasという。Kertasとは紙の意味。そういえば紙で作ったような花をしている。Bunga kertasmatahari(太陽の光)が好きなのだそうだ。

日本でもよく見る花がここにもある。ニチニチソウ、センニチコウ、カンナ、ランタナ、ハイビスカスなどである。ニチニチソウはバリデサアパートのレセプションの横にたくさん咲いているし、センニチコウはおそなえの中によく見かける。ヌサドゥアの割れ門の中は芝生も花もそれはそれはきれいで、自転車で通るといろいろな花にめぐり会える。アデニウムという赤い花もきれいだ。

本を読んでいてわかったことだが、ランタナはインドネシア語でkembang tahi ayam(鶏の糞)というそうだ。葉が触れると臭いというのだが、私が実際触ってみたらミントのようないい香りだった。この葉をもみしだくと傷によく効いて伝統的消炎解毒薬として使われているということだ。

ホテルのレセプションなどによく飾られている白い花がある。アスパラガスのような茎がすくっと伸びて花は白くて長い蕾状。そばを通るだけで甘い香りがする。レセプションのミミさんに聞いたら「これはbunga sedap malamといって、朝はにおいがしない。夜になるといい香りをはなつのです」と教えてくれた。bunga sedap malamとは夜に香る花という意味、日本語(中国語?)では夜来香(イエーライシャン)、英語ではtuberoseという。魅惑的な花である。

小動物たち(May 99)

乾季になってカエル(kodok)をあまり見なくなった。去年の秋にバリの下見に来た時には庭のあちこちに顔を出していた茶色のカエル(日本のアマガエルより大きい)をとんと見なくなった。どこへ行ってしまったのだろうか。ここの人はカエルが好きなのか、ヌサドゥアの道端にあるごみ箱は全部カエルだし(口からごみを入れる)、サリブミというこちらの有名な食器にはトレードマークのように小さなカエルがくっついている。先日イタリアンレストランunoで見たこどもたちの踊りはフロッグダンスだった。

フルーツ

トッケイ

とはいえ一番ポピュラーな生き物はやはりやもり(cicak)とトッケイ(tokek)だろう。チチャと呼ばれるやもりは至る所にいる。家の中にもいる。害虫を食べてくれる、まさに家を守ってくれるやもりなのだが、爬虫類の苦手な私は最初はひやひやものだった。バスルームでバスタオルを取ったらその後ろからチョロチョロー、ベランダへ出ようとドアを開けたら上からほほをかすめて胸をジャンプしてどこかへ行ってしまったこともあった。

しかし、だんだん平気になってきたのは、ひとつには当然のことながらやもりは人間をおそれてすぐに姿を消してくれること、もうひとつは本当に小さくてかわいい5㎝くらいの赤ちゃんチチャを見てかわいい!と思ったことからだった。まだ逃げ足が遅くてもたもたしていた。

しかしトッケイの方は絶対にかわいいなどとは思えない。グロテスクである。30㎝ほどもあるとかげの親分のようなのが外壁にはりついていたりすると思わず立ちすくんでしまう。庭をスルスルッと歩いている大きなとかげもいる。あんなのしっぽを踏んだらいやだなと思う。トッケイという名はその鳴き声からきているという。夜寝ていると「トッケッ、トッケッ」と5,6回続けて大きな声で鳴いている。トッケイという名を先に知っているからそう聞こえるが、知らなければ「クックッ」とも「カッカッ」とも聞こえるような気がする。鳴き声が奇数回続くとラッキーらしい。

他に見るのはりす、屋根の上ややしの木を走っている。ねずみも健在だ。浜辺のイカンバカール(魚レストラン)の屋根のはりを走っているのを見たし、ホテルの野外バイキングの足元を走っている丸々としたねずみもいたっけ。

ねこ(kucing)はあまり見ないが犬(anjing)は異様に多い。道路をどこでも歩いている。よく車に轢かれないと思うくらい上手に車をさけて歩いている。車の方も怒りもしないで上手にかわしていく。鎖につながれている犬など1匹もいない。バリの犬はペットではないので人に媚びず、したがってあまりかわいさはなく、しかし堂々と‘一人前’に生きている。餌も大してもらっていないのだろうが、お供えの残り物などを上手に捜しては食べているようだ。

その他にはバッタ、セミ、トンボ、そうそうアリはすごい。ケーキの箱を冷蔵庫にしまい忘れた時はアリの巣状態になった。「そんな時は直射日光に当てると数秒で逃げていきますよ」と教えてくれたのは福島さんだった。今度ためしてみよう。

子どもたち(Jun 99)

先日美葉子と自転車に乗ってヌサドゥアのビーチへ行った。ビーチ沿いに散歩している観光客に混じって子どもたちが凧上げをしていた。

バリは大人も子どもも凧揚げが盛んで、もうじき凧揚げ大会もあるということだ。ビーチでは海の風を受けて凧がよく揚がる。凧はビニール製のカイトで派手な色に塗られている。町には凧やさんもあるくらいだ。すでに凧を空に上手にあげている9歳くらいのふたりの男の子がいた。ひとりが凧の持ち主でもうひとりはその先の糸をもたせてもらっているようだった。

私達のすぐそばで8歳くらいの男の子が無心に凧の糸を補修していた。見ると凧も手作りで赤と黒に塗り分けている。竹ひごにいくつもしばりつけた凧糸のバランスを見ながら調整している。その顔があまりに真剣でかわいかったので私はカメラのシャッターをきったのだが、1メートルしか離れていないのに、それにも気がつかないほどの熱中ぶりである。やっと思うようにできたのか顔をあげた時私と目があって、本当に嬉しそうな顔でにこっと笑った。

さっそく立ち上がって糸を持って走り始めたがすぐにくるくるとまわって落ちてしまう。「凧を持ってあげようかな」と私が言うと美葉子が「彼らはこれを楽しんでいるんだよ」と言うのでしばらく様子を見ることにした。

すると美葉子の言ったとおりだった。くるくるとまわって落ちるたびに、そばに座っていた少年のお姉ちゃんらしき子と友達がけらけらと笑うのだ。それもこれ以上おかしいことはないというくらいおかしそうに笑うので、思わず私達もいっしょに笑ってしまった。笑われた少年はどうかというと、これもけらけらと笑っている。失敗を楽しんでいるそのおおらかさに、私はなぜだかしあわせな気持ちになった。

ふと見ると、さっき上手にあげていた少年の凧がパンダナスの木にひっかかったようだ。それを何とかしてやろうとする大人たちが木を取り巻いていた。さっき糸の先を持たせてもらっていた少年は、現金にも今はべつの凧の糸を持って楽しんでいた。

バリの子どもたち

バリの子どもたち

その2,3日あとでサヌールを車で走っていて信号待ちをしていた時のこと。道路わきでこの前よりももう少し小さい(6歳ぐらい)少年が一生懸命凧揚げをしている。左手に空き缶のつぶしたのを持って(これに糸を巻く)右手は糸を引いている、と思ったが糸が見えない。変だなと思って隣にいる夫に「ねえ、あの子凧揚げしていると思う?」と聞くと「うん、でも糸が見えないなあ」と目のいい夫も言う。少年の見上げる空には確かに凧がふたつ泳いでいるのである。どう考えてもここは凧揚げの場所ではないことから、この少年は「凧を揚げているつもり」の遊びをひとりでしていたのだろう。あの我を忘れたようなまなざしを思い出すたびに少年がいとおしく、おもちゃを買ってもらえなくてもそれなりに遊んでいたわれわれの子ども時代をふと思い出したのだった。

塩田

トゥガナンへ行く途中、地図に salt pans(塩田)とあるのを見て、その村クサンバ(Kusanba)を訪ねてみる。バリは天然の塩がおいしいことでも知られ、空港などではお土産用に500グラム6ドルくらいで売っている。確かに化学塩と違ってミネラルのあまさがある。おにぎりに使うとおいしいし、梅干もこの塩でつくるとおどろくほどおいしいのだそうだ。

塩田

塩田

運転手のウエンディーさんが村の人に聞きながら細い道を入っていくと海に出た。竹と椰子の葉で作った掘建て小屋が10軒ばかり並んでいてそれらと海との間に砂場のように黒い細かい砂の塩田が並んでいる。一番手近の小屋に近づくと、上半身裸であった70歳くらいのおばあさんがおもむろにブラウスを身につけた。(バリでは50年前までは女性も上半身はだかで暮らす習慣があった)

ウエンディーさんが二言三言おばあさんとバリ語で話して私達は小屋の中を見せてもらった。6畳くらいの小屋の中は薄暗くてどこでどう塩が作られるのかよくわからなかった。なにしろおばあさんが話すバリ語をウエンディーさんがインドネシア語と片言の英語で私達に伝えようとするわけだからここは想像力が必要とされる。しかしとりあえずそこにあったビニール製のもっこで海から海水を運んで塩田に撒くということはわかった。さらに海水を含んだ砂を布で漉す装置(?)も理解できた。でもそれだけ?どこかで熱を加えて濃くするのではないかと思っていた夫は「じゃあどこで塩になるのよ」と日本語で質問を発するが答えはない。

塩づくり

塩づくり

ところが外へ出て奥の方へ歩いた時、私達の疑問は解消した。木を半分に割ってくりぬき皿状にしたものの中に満たされた海水がずらーっと天日に干されていたのだ。2メートルくらいのくりぬき皿が100個くらい並んでいただろうか。皿の中ではすでに海水の表面が白い塩の結晶に変わりつつあった。「そうか、これでわかったよ」と夫は興奮気味に叫んだ。私達は疑問が解消した嬉しさと同時にお日様によって生まれ出てくる塩の結晶を見て感動していた。

「今固まりつつある塩はきょうの午後4時ころにはできるけど、きのうできたのが小屋にあるよ」というので5キロほど買って帰ることにした。おばあさんはどこからか植木鉢のような容器を持ってきてこれ1杯が2キロだからと塩をすくってそのへんにあったビニール袋に入れてくれた。「いつもここで売っているだけ?」と聞くと「クルンクンの町まで売りに行く」と言っていた。

今日はもう5キロも売れておばあさんは嬉しそうだった。「どうしてそんなにたくさん買うのですか」とウエンディーさんは不思議そうだったが「日本へのおみやげ」と答えてもやはり不思議そうだった。

つまり私達日本人にとっては昔ながらの自然の塩がとても貴重なものになっているが、ここの人達にとっては、これしか塩を作る方法を知らないし昔から続けてきた仕事をただあたりまえにやっているだけ、ということなのだろう。

その夜、私達は日本人への貴重なおみやげをパックするために、夜中までかかって塩に混じった木屑を取り除く作業をしたのであった。それにしても塩の中に少なからず茶色の小さな蟻が混ざっていたのはなぜだろう。塩の中のあまみを蟻も知っているのだろうかと思ったりした。

ダブルイカット (July 99)

トゥガナンへ行った目的はアタッという草で編んだバッグを買うこととイカットを見る(気に入ったら買う)ことだった。トゥガナンはチャンディダサから内陸へ3km入ったところにある戸数150戸の村だ。

私はホテルのタペストリーなどで見てバリのイカット(織物)にあこがれをいだいていた。トゥガナンが数少ないダブルイカットの産地と聞いて、ダブルイカットが何かも知らずに取りあえず来てみた。

ワヤン君という青年が案内してくれて兄さんのマデさんがやっている店に連れて行ってくれた。ラーマーヤナストーリーという名のその店は店というよりもふつうの家で、玄関に一番近い場所にイカットをしまった戸棚があり、またいくつかのイカットが天井から下げてある。どれもすばらしい。動物や人の絵が織り込まれているのもあればモチーフが織り込まれているものもある。

そこでマデ兄さんがいかにダブルイカットがすばらしいものかを早口の英語で説明してくれた。技術的にいえばダブルイカットがシングルイカットと違う点は、縦糸横糸ともに最初からモチーフに合うように色染めしてあって、それを織ることによってそのモチーフが完成するということらしいのだが、あんな細い糸を組み合わせてどうしてぴったり模様ができるのかどうしても最後までわからなかった。

ダブルイカット

ダブルイカット

技術的なこともさりながら、マデさんが話してくれたダブルイカットの持つパワーの話が興味深かった。たとえばそこで見せてもらったダブルイカットは彼のお母さんが作ったものだったが、満月の日しか作業をしないので30cmx1mくらいのその布を織るのに4年半かかったという。満月の日には月からパワーをもらえるからだという。だからこの布には不思議な力があって、子どもが病気の時にはからだの上にかけてやるし、犬や猫が病気の時は布を水でぬらしてからだの上にしぼってやるとよくなるのだそうだ。

大切なことはダブルイカットが観光客の需要の上に発達してきたのではなく、地元の宗教儀式に必要とされて伝承されてきたことであり、それは現在でも変わらず地元の人々の生活の中に生き続けているのである。たとえば、女の子が髪を切る儀式の時はこれ、歯を削るポトン・ギギの儀式のときはこのイカットというように決まっているのだそうだ。

結局私はシングルイカットをテーブルセンター用に2枚買った。マデさんにダブルイカットを1枚買うようすすめられたが、ルピアに慣れた私には高かったことと(本当はけっして高くないことはあきらかなのだけれど)それほど時と心をかけた作品を一度目の訪問で買うのはあまりに軽すぎて失礼な気がしてやめた。でも日本へ帰るまでにはぜひ1枚求めたいと思っている。

村の出口まで送ってくれたワヤン君は7月1日に青年達が行うカクタス・ファイティング(さぼてんをもって傷つけあう)の時の背中の傷あとを見せてくれた。これもこの村独特の儀式のひとつで勝ち負けはないのだそうである。「デンパサールへ出て行く友達もいるけど、ここは僕が生まれたところだから」と話していた彼と握手して、私達はトゥガナンの村をあとにした。車に乗った後、ダブルイカットの美しさに心を奪われて写真を撮るのをすっかり忘れていたことに気がついた。

Tくんのこと

美葉子のESL(English as a second language、つまり英語を母国語としない生徒達のための特別英語クラス)の先生であるシェリルから電話があったのは先週の木曜日のことだった。新しく入学したTという日本人の男の子のことで’need your help' というので次の週の月曜日にBIS(バリインターナショナルスクール)に出かけて行った。

オフィスでシェリルとMr.ボスパー(校長)の3人で話したところによると、Tは先週からBISに来ているが、英語が全然わからないうえに何を考えているのか分からない、はさみで絵を切らせてみたが10歳の子にしては下手で、もしかして学力その他もアベレージに達していないのではないかと考えている。親も英語が話せないのでBISとしては彼にどういう教育をしたらよいのかわからないでいる。とにかく現段階ではESLで勉強するのも無理があるようだ。そこで私にしばらくの間Tに英語を教えてやってほしいということだったのだ。私が日本で子ども達に英語を教えていたことがあるのをシェリルが知っていたのと、彼の様子を英語で報告できることを見込んでくれてのことらしい。

私は夏の来客が終息して急に暇になっていた時期でもあり、Tという子に興味もあったので、ふたつ返事でひきうけたものの、家に帰ってから果たしてうまくできるだろうかと心配になってきた。時給12ドル50の給料ももらえるのだそうだ。家から会社にいる夫に電話をすると「おもしろそうだね。あまり責任を重く考えないでやってみたら」と賛成してくれた。私が何か始める時、彼はいつもこんなふうに後押ししてくれるので私は前へ進めるのだ。

1日目

朝7時15分に美葉子といっしょに家を出る。7時50分に学校へ着くといつもは私が言う「がんばってね」という言葉を美葉子が私に言ってくれて、彼女は8年生の教室へ、私はESLの教室へと別れる。ESLの教室のコーナーに二つの机と椅子が置いてあり上にイカット風のテーブルクロスまで敷いてあってシェリルとカミル (同じくESLティーチャー)の心遣いが感じられて嬉しかった。このESLの教室のそれぞれのコーナーで、シェリル、カミル、イブ・デサ そして私の4人がそれぞれの生徒を教えることになる。

8時から8時10分まではクラスで担任が出席をとったり連絡をしたりするので、8時10分に私は5年生のクラスにTを迎えに行った。Tは小柄でスポーツ刈りのぼんやりした表情の子だった。昨日顔合わせだけはしていたが「おはよう」と言っても下を向いたまま無表情である。「じゃあ、ESLの教室へ行こうか」と言っても黙ったまま。肩に手を置いて促すとさわるなとでも言うように肩をゆすって立ち上がり、彼の頭越しに私と担任のアリは顔を見合わせて苦笑した。それでもやっと私は彼をESLの教室へ連れて行くことができた。

椅子に座って、私は自分のこととなぜ私がTを教えるようになったのかといういきさつを話した。「じゃあ、こんどはTが自分のことを話してみて」というと「何を話すん?」と大阪弁で聞いてくる。まとまった話は聞けそうになかったので結局私が質問をするかたちになったのだが、そこでわかったことは、先週の月曜日からBISに来ている、学校へは雇った運転手の車で来る、クタに住んでいて親は5台の車を持ってレンタカーの仕事を始めたところだ、バリは2回目で好きである。どうしてバリへ来ることになったのかと聞くと「日本で貧乏しててもしょうがないしな。それなら物価が安いバリの方がええから」と言う。これは親の言葉をそのまま言っている感じだった。気になるのは母親は話に出てくるが父親は見えない。あまり自分のことは話したくないようで「もうええやん、こんな話してても時間のむだや。はよう勉強しよ」というので話はそこまでにして勉強に入った。

英語の勉強を始めてみると彼はよく英語を知っていた。アルファベットは読めるし、書くことは完全ではないけれど10歳の小学生にしてはできるほうだ。それに単語を知っている。きのうカミルが教えたという単語カードをやってみるとほとんど言える。これは驚きだった。「理解力がアベレージに達していない」というMr.ボスパーの言葉を思い出しながら「英語についてはちがう」と私は考えていた。私の満足そうな顔を読んで彼も満足そうだった。そしてkiteの「たこ」をoctopusとまちがえたとき、彼は初めて子どもらしい顔をして笑った。私達はふたりで声をあげて笑った。その顔を見ながら私は彼とやっていけそうだ、とすこし自信がでてきた。

2日目

朝ESLの部屋にTが母親といっしょに入ってきた。きょう母親に電話をして話そうと思っていたのでちょうどよかった。Tを教室へもどして私は母親と話す時間がもてた。

母親はやはり小柄で化粧気がなく30代半ばという感じの人だった。顔はTに似ている。英語ができないために学校についてもわからないことが多く、学期のこと、ランチのこと、授業料のことなど私から説明してあげる。夫は離婚したか何かで日本にいる時から母子家庭だったことがわかった。Tが言っていたようにクタにショップを置いて、レンタカー、両替、公衆電話などの仕事を始めようとしているらしいが、英語もインドネシア語もできないうえにちゃんとした仕事上のパートナーがいないので、どこかでだまされるのではないかと自分でも心配なようだ。ビザもまだ2ヶ月のソーシャルビザでそのうちKITASを取りたいと言っているが、ビジネスについては素人の私が聞いていてもいかにもあぶなっかしい話である。これではT本人よりも母親のほうが心配になってきた。こんな状態ではTに気を配っていれる暇もないであろうと思われる。もうひとつなるほどと思ったのはTはなんと3歳からジオス英会話で週1回英語を勉強していたのであった。

ESLの支払いに来たというので会計に連れて行ってあげる。そのあといっしょにMr.ボスパーと話をする。Mr.ボスパーはきのう渡したレターの内容について彼女が理解して納得したかどうかを確認し、またきょう大阪の小学校に電話してTのことを聞きたいがOKかということの了承を得た。彼女の方もいくつかの質問をして、今後何か質問、問題があったときは私が通訳をするのでいつでもこうやって話し合おうということで、きょうは彼女は帰っていった。

Tとやったきょうの授業でも彼は英語の能力を示した。aで始まる言葉、bで始まる言葉と順にやっていくとつぎつぎと言葉が出てくる。ただし書くことは乱雑だ。ノートの罫の中に字がおさまらない。

授業のあと校長室で私が大阪の小学校に電話をすることになった。担任はあいにく授業中であす9時半の休憩にもう一度電話することを約束するが、電話に出た校長がTのことをよく知っていた。率直というか正直過ぎるほどに校長はTがいかに問題児だったかを話した。悪い人ではなさそうだったが、Tがいなくなってほっとしたようにもとれるほど、あっけらかんとしてTの短所をあげつづけた。自制心がない、自分の世界をつくって他人とうまくやっていけない、友達にちょっかいをかけてはけんかを起こす、一度などは親まで出てきて大きなけんかになった、他人の物を取っては、とがめるとすぐ嘘をつく、忍耐がない、ほめても喜ばない、などなど。きわめつけは1学期の通知表をもらった日(つい最近のこと)に成績のいい子の通知表を取って持って帰り親に見せたこともあったそうだ。そういえばMr.ボスパーが見せてくれた通知表の評価はゴム印の上にボールペンで書きなおしてあっていやな感じがしたのを思い出した。

これだけ短所を挙げつづけられて、聞いている私は暗澹たる気持ちになった。それで「すみません、校長先生、それで彼のいい点は何かないのでしょうか」と聞くと、「うーん」とうなった後で「彼は頭は悪くないと思うんですよね。ただ集中して勉強しようとしないからね」とやっと一縷の望みというか希望のきれはしを言って私達の会話は終わった。

そのあと、Mr.ボスパーとカミルと私の3人で話した。ふたりは私が電話の内容を話すのをじっと聞いていた。あまりに悪いことばかりなので、最後に私はTが英語については能力がありそうなこと、母親もTもバリが好きで、とくにTは日本のきゅうくつな学校はきらいだったがBISは自由な雰囲気で好きだと言っていることなどを付け加えた。ふたりは日本の校長先生がここまで詳しくTのことを知っているのに驚きながら、きっとそれはたびたび問題を起こしたから校長もいつも関わっていたのだろうと笑った。

こんな話の後でMr.ボスパーはTのことをどう思うだろうと見ていると、彼は実にこう言ったのである。「日本では評価が悪かったけれども、TにとってこのBISは新しい自分をつくるいいチャンスになるかもしれない。もし英語で自信がつくなら彼はここでうまくやっていけるかもしれない」これだけさんざんな話を聞いたあとでも前向きに考えてくれる彼の言葉に私はほっとしてまた感動していた。カミルも大きくうなずいた。

7日目

BISの先生達は9時50分からの20分休憩にスタッフルームでお茶を飲む。私は9時50分で授業が終わることが多いのだが、情報交換のためにここへ行くようにしている。最初は英語が飛び交う中にひとり混ざって下手な英語で話すのが苦痛であった。それも慣れて来た頃今度は別の理由で苦痛になってきた。あちらでもこちらでもTの話なのである。彼はここでも最初から問題児の印象を与えてしまったようだ。自分のことではないのに身がちぢむ思いがする。

きょうも入っていくなりアンドリューが日本語で(彼は日本に住んでいたことがある)「カズコ、Tハトテモワルイデス、He is unusual for a Japanese.(日本人にしてはめずらしい)」と言う。横で担任のアリと図書室のシェリルがきのうのけんかについて話している。きのう図書室でTはアツキという日本人の女の子とユキという日本人ハーフの子との間でトラブルを起こしたのだ。アツキとユキが先に本で頭をたたいたというのが私が聞いたTの言い分なのだが、それを見ていたシェリルによるとそれはわざとでなくあやまってあたったらしい。しかもふたりはTにおもしろい本を教えてあげようとしていたところだったらしい。本が頭にあたってみんなに笑われたTはかっとなってアツキの頭をなぐったのだ。シェリルが注意すると彼は悪びれることなく何が悪いという顔をしてシェリルに向かってくるのだと言う。この時だけでなく、Tは図書室に来ると乱暴でみんなに嫌われ始めているようだ。

このことがあってから、Tはランチタイムにひとりで図書室へ行くことを禁止された。シェリルは、彼はいつもだれかそばに大人が必要だという。それはそのまま日本の小学校の先生が言った言葉でもあった。つきそいの大人なしに図書室へ行ってはいけないということを伝えるとTは少し驚いていた。日本では注意はされてもこのように具体的な罰を与えられることはなかっただろう。私はこのすぐに措置を講じるここのやりかたをいいと思った。悪いことをした時にうやむやにしないで悪いということを具体的な措置で教える。もちろん彼が問題を起こさなくなればまたひとりで図書室へ行けるのだ。

少し感じるところがあったらしいTに私はこう説明した。ここでは悪いことをすれば必ずそれに対する罰がある。この前も友達にけがをさせて1週間停学になった子もいたし、1週間毎日ランチタイムにごみひろいさせられた子もいる。それに何より一番悪いことは君がけんかをすれば友達が去っていくよ。英語も大切だけど、まず他の子達と友達になることが先だよ。最初が肝心、友達も先生達もみんなTのことを注意して見ているからTも行儀良くしなければいけない。そうでないとこの学校でやっていけないよ。

きょうはひとりで図書室に行けないから、グランドへ行ってサッカーしてみたら、リョウスケという9年生の男の子が毎日サッカーをしているからいれてくれるよと私はアドバイスした。一方で私はリョウスケをつかまえて、Tがトラブルを起こして図書室に行けなくなったからグランドへ行ったらサッカーに入れてやってと頼んでおいた。

1学期最後の日

Tと勉強を始めて2週間がたち、1学期最後の日となった。この2週間私は英語を教えると同時にマナーも教えなければならなかった。Tはあいさつができない。私が毎朝「おはよう」と言ってもだまってぼんやりしているか、頭を前後にふるだけである。「おはようございます、でしょ」と幼稚園の生徒のように言わなければならない。それでもいまだかつてあいさつできたことがない。

勉強をする前に、あいさつがどれほど大切なものかを教えなければならなかった。Good morning, thank you, excuse me, など基本的なあいさつを練習する。「なあなあ、そっち(わたしのこと)がぼくにthank you って言わなあかんのちがう?」と言う。「なんで?」と聞くと「ぼくのおかげで給料もろうとる」。ESLの教室に入る前に「先生達があいさつしたらgood morning って言おうね」と2,3回練習して入るがやはり無視するか頭をふるだけ。しょうがなくつかまえて言わせることになるが、ふざけて日本語で「おはよう」と言ったりする。緊張して英語が出てこない子もいるが彼の場合はそうではない。なにかかたくなだ。カミルは忍耐強い人なのでがまんして聞いてくれるが、シェリルなどは露骨にいやな顔をする。

この2週間で絵本を2冊だいぶん上手に読めるようになったのでカミルに聞いてもらうことにした。最初に短い自己紹介のスピーチをやってそのあと本読みをしたが、練習以下だ。だらだらしてちゃんとやろうとしない。他人に認めてもらいたいという気持ちがない。日本の校長先生が「ほめても乗ってこないんですよね」と言っていたのを思い出す。終わって「カミルに聞いてもらってありがとうと言いなさい」と言うと「聞かせてやったんやからそっちがありがとうというんやろ」。

私は怒った。そしておどしをかけた。はっきり言って私がここにいなくなったら君は困る。通訳もいなくて先生達は傍若無人の君に手をやいてBISから君を追い出すだろう。今は私も先生達もがまんしているが、いつまでもがまんしてくれるとは思うな。そしたら君は行きたくないと言っているインドネシアの現地校へ行くんだね。

無表情のTからは彼がどれだけわかっているのか読み取れなかったが、私はなんでも中途半端に許されてきた日本の学校のことを思っていた。

話し合い

その日のお昼休みにTの母親、校長、担任、カミル、そして通訳の私が入って校長室で話し合いをもった。校長は授業料など事務的な話をしたあとで、次のように言った。

「我々はTにとってBISが立ち直りのチャンスと思うので、図書館でのトラブルや先生に対する態度の悪さにも今はがまんしている。しかし2学期が大切です。2学期を見た後で、我々は彼がここで他の人達に迷惑をかけないで続けていけるかどうかを判断します。ここでやっていけないと判断した場合はやめてもらう可能性もあります」担任のアリも同意見だが「Tのクラスは幸いにもいい子が多くてTのことを気にかけてくれている。彼がみんなの態度を見習ってくれるとうれしい」とつけくわえた。カミルは「学力の面でも2学期の最後に判断します。ESLのクラスで勉強して少しでも成長して行く希望がみられればよいですが、やる気を見せなくてここにいても本人のためにならないと思ったらそれ以上続けていくことはできません」これに対して母親は「わかりました」と言っただけなので、先生達は「お母さんの意見を聞きたい」と言った。すると彼女は「Tには、BISは日本の学校とちがってここのきまりがあり、好き勝手なことをしているとここに置いてもらえなくなる、と言い聞かせています。もしいられなくなったらインドネシアの学校へ行くしかないよ、と言うとそれはいやだと言うのです」しかし彼女はそれに続いてTのことを弁護し始めた。「日本の先生達は何と言われたか知らないけれども、日本で問題がおこった時悪かったのはTばかりではない。まわりの子達の方がもっと悪かった。まわりの子達は要領がよかったけどTは単純で損なんですよね」この弁護はいつまでも続きそうだったので私が適当に切りあげて通訳した。

先生達はとても真剣でそれだけ問題は深刻だった。そのことを母親がどれだけ感じてくれたか私は心配だったので、外に出てからもういちど「Tが行儀良くしてやる気を見せないとやめさせられる可能性がある」ことを確認した。

母親は次に、私の夫が紹介した日本人のビジネスコンサルタントに今朝会ってきたことを話し、私に感謝した。コンサルタントの話では「早く来て良かった、そうでなければ雇っているインドネシア人のスタッフにすっかりだまされるところでしたよ。今は知らないふりをしておいてください。その間に契約などをやりなおしていきましょう」と言われたそうだ。ふーぅ、こちらはぎりぎりセーフだったようだ。

あっけない結末

Tと私の勉強はあっけなく終わってしまった。Tが学校をやめてしまったのである。そしてわたしはわずか2週間で失職してしまった。

1週間の休みが終わる前の日、第2学期に向けて新しいワークブックを買い、月曜日のティーチングプランもたて、さあこいと思っていた矢先にTの母親から電話があった。もう学校はやめるという。いっしょに動いていたAというインドネシア人から逃げていると言う。それもBというインドネシア人の入れ知恵で「Aはあなたをだまして全部お金をまきあげるつもりだから身を隠した方がいい」と言われたのだそうだ。Aに言われるがままにお金を渡し、言われるがままに店や車や家を買っていたらしい。もしTが学校を続けるとAは学校にやってきてTをつかまえ、自分を追ってくるだろう、それがこわい、身の危険を感じながら学校へやるわけにはいかないというのである。

2週間前にどうもあぶなっかしいと思ってビジネスコンサルタントのCさんを紹介したのだが、別の日本人に「Cさんにはやくざがついている。手を切った方がいい」と言われてCさんとも離れてしまったらしい。要するにあの人、この人にいろいろなことを言われ頭の中が混乱しているのだ。自分の考えや知識がないので自分で決定できないのである。

「わかりました。では私はBISへ行って退学することを伝えます。その時すでに払い込んだ2学期の授業料の返還をお願いしてくればいいのですね」と確認して受話器を置いた。なんだかとても腹立たしいような、でも冷静に考えればなるべくしてなった結果だな、という思いと、ああもうTで悩まされることはないのだという気楽さとが入り混じって複雑な気持ちだった。

いちゃもんの社会

T親子をほおっておくのも気になったし、母親は、私が紹介したCさんのためにことが悪い方に進んでいると信じているようなので、もういちど会うことにした。

私がインドネシア語を習っているさちこさんという女性がいる。インドネシア人と結婚して25年バリに住んでいるさちこさんは、言葉は領事館に頼まれて通訳をするくらい完璧であるし、これまでたくさんの日本人のトラブル解決に協力したり相談にのったりしてきたバリの「肝っ玉かあさん」みたいな人である。それで私はさちこさんに相談してみた。「表に出るのは困るけど、通訳としてなら協力するわよ。こういう時は表に出るのは男がいいの。福島さんなら弁護士も知っているし、一度相談して見たら」というわけでこんどは福島さんに電話をした。

福島さんはジンバランで東洋医学にもとづいたマッサージのお店を開いていて在バリ1年8ヶ月であるが、商売を立派に成功させている人である。おなじくさちこさんの生徒であり、我が家とも家族ぐるみのおつきあいである。この福島さんにしろさちこさんにしろ、ひとがよいというのか、困っている日本人をほおっておけない人達で、つい先日まではマリファナで刑務所に入れられていた日本人の若者の世話をするために刑務所通いをしていたのである。

果たして福島さんは「いいですよ。あくまでもボランティアとして相談にのるということで会ってみましょう。ケーススタディのひとつとして興味もありますしね」と言ってくれた。

福島さんはひととおり母親の話を聞いたあとで「バリで商売をするうえでの哲学」みたいなことを話してくれた。日本人で商売を始めた人のうち10人中7人は失敗して日本へ帰っていること。バリ人にだまされる人もあるし、日本と同じやり方で商売をやろうとする人もうまくいかない。たとえば何かにつけてインドネシア人と日本人とでは値段がちがうがそのことはこちらの人にとっては罪悪ではない。持てる者から取るというのはここの常識なのだ。またビジネスをうまく進めるためにはお金を払ってしまった方がてっとり早い場合もある。なにしろいちゃもんの世界だから、警察もイミグレーションもいちゃもんをつけては袖の下で金をまきあげる。あなたは何も知らないで商売を始めてクタのチンピラにだまされたのですね。いままで取られたお金はあきらめるか、Cさんに続けて働いてもらうか(お金を取り返すためには多少やくざ的なうごきも必要かもしれませんよ)あるいは弁護士をたてて(インドネシア人の弁護士料はおどろくほど安い)相手から少しでも取り返すかですね。いずれにしろ、今までの失敗はだれが悪いのでもない、すべて自分に責任があるのだということを認識することが必要です。

こういったことを福島さんは実に淡々とていねいな言葉でしかもポイントはぐさっとおさえて話すのである。たとえば「短期間でよくそんなにたくさんお金を取られましたね」とか「あなたは100パーセントサポートが必要な方だから」「日本へ帰った方がいいかもしれませんね」という具合である。私は福島さんの落ち着いた説得力のある話術を感心しながら聞いていた。「あなたは斎藤さんにものすごく失礼なことをしているんですよ」(この日、彼女は私がCさんとぐるではないかとさえ疑っていたのだ)と言ってくれた時には溜飲が下がる思いがした。

1時間半話した後で、きょう1日考えて明日Cさんに会い、Cさんでいくか、弁護士を頼んでさちこさんに通訳をしてもらうか、その場合は福島さんに電話で依頼するということで話を終わった。

別れ際に「落ち着いたらまた学校の方よろしくお願いします」という彼女に(おいおい私はきょう退学を申し入れて授業料のリファンドも依頼してきたのよ)と思いながら「それはまたその時考えましょう」と言った。正直言ってもうこれ以上関わりたくないというのが本音だった。

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