ごあいさつ

神々が棲む島バリ島。かつて店主夫婦は転勤のため4年間バリ島に住みました。いつ訪れても、やさしく迎えてくれるバリ島の魅力をお伝えしたいと思います。バリ島に興味がある方、どうぞいつでもお話しにご来店ください。インドネシア語も少しは教えられますよ。バリ島で旅行社、ヴィラ、エステなどを経営する、家族同様の友人のサイトをご紹介します。

バリ島専門旅行会社パルテンツァ http://www.partenza.jp/

ヌサギアグループ http://www.nusagia.com/

交通事情(Feb ’00)

今日で3日続きの雨だ。雨季だからしかたないにしても、この3日間の雨は一日中しかも激しく降っている。大雨警報なんてものもなく、学校はいつもどおり。休むなら自分の判断と責任で休むのがここのやりかた。

午後、夫が仕事で移動中、携帯から電話をしてきた。クタのハードロック・ホテルへ行くところだというので、エンターテイメント・セクションにいる知人のイチャル君に会ってくれば、と彼の携帯電話の番号を私が探していた時、電話のむこうで夫が「あーっ」と声をあげ、「エンストした。ちょっと電話切るわ」と言って電話は切れた。道路の状態が悪くすぐに水溜りになるので車が水につかってエンストしてしまったらしい。この時もクタは激しい雨で車が渋滞していた。

帰ってきた夫に聞くとやはり大変な状況だったらしい。クタ・スクエアから海岸へ抜けるクタのメイン・ストリートで止まってしまい、後ろには車が数珠つなぎ。運転手のマルタさんがなんとかしようとしたが車は動いてくれない。業を煮やした後続の運転手達が雨の中、水溜りの中、車からおりて夫の車を押して寄せてくれたそうだ。その間、スーツに革靴姿の夫は車の中で、自分は関係ないただの客だという顔をして座っていたらしい。

こんな時日本だったらどうだろう。それでなくても渋滞でいらいらしている時30分近くも待たされたら、怒声をあびせるだけにおさまらず、車を叩くは蹴るは、あげくの果ては殺人、とまではいかないか。でもともかくそんな感じだろう。ところがバリではちがうのだ。とりあえず待つ。しばらく待つ。しかたがないなあ、という感じ。どうしようもなくなっておもむろに動き出す。自分が雨にぬれることはさほど問題に思っていない。

私は毎日運転手が運転する車で移動しているが、在バリ10ヶ月、一度も道路上のけんかを見たことがない。交通事情は日本の常識からするととても危険で無節操。決して少なくない車の間をそれ以上の数のバイクが2人乗り、3人乗り、そして時には4人乗りで走り抜けていく。ここにはここの運転の仕方があるようで、みんなとても上手である。けがをしたら自分の責任だ。ときどきバイクがひっくり返っているが、大したことなければまた平気な顔をして乗って去って行く。あわや接触(うちの運転手は腕がいいので相手が接触しそうになったという意味)という場面は何度もあったが、運転手は顔色ひとつ変えない。もっとも相手の方もそんなこと思ってなくて、ひやっとしたのは私だけなのかもしれないが。

とにかくそういう場面で怒らないのが私には驚きだった。(わが夫などは日本にいる時しょっちゅう車の中で「ばかやろう」とか「あほんだら」とかわめいていたものだ)きわめつけには、こんなことがあった。前出のマルタさんと横断歩道を歩いて渡っていた時のこと。少し足の悪い彼がゆっくり歩いていたところ、向こうから車が突進してきて横断歩道の前で急ブレーキをかけたのだ。私は思わずあぶないっと叫んだが、マルタさんは悠々と、且つにこにこしながら言った言葉がこうだった。「キジャン(その車の名前)のブレーキはさすがですね」バリの人達のこういうところを私はうらやましいと思う。

バリの日本人

先週末我が家へ5人の日本人の来客があった。3人が男性、2人は独身女性である。食事をしながらF氏が「ところでUさんはバツイチですか」と聞いた。「そうです。Fさんもですか。そういえばIさんも」そこに居合わせた3人の男性はいずれも「バツイチで現在独身」の人達だったのである。U氏が続けて言うには「やあ、この前もね。10人集まって飲んでいて、バツイチの者手をあげろって言ったら7人もいるの。こうなったら『バツイチ友の会』でも作らなきゃっていう話になったんですよ」

これは嘘でも誇張でもなく本当の話なのである。ご当人たちが使われているのでバツイチという言葉をそのまま使わせてもらうなら、そのバツイチの人達がここバリにはとても多い。夫の会社の日本人スタッフは男性5名と独身女性1名だが、そこでも男性5名のうち3名が再婚である。

夫の会社のような企業の中での例は偶然かもしれないが、バリに長く住んで個人でまたは旅行代理店などで仕事をしている人たちにバツイチが多いというのは何か共通した理由があるのではないか、と私は思った。

バツイチの人の多くはバリへ来る前に日本で離婚してきている人が多い。圧倒的に男性が多いが女性の中でもそういう人を2、3人私は知っている。離婚した後せまい日本の中でもと妻、もと夫、さらに親戚などのしがらみを感じながら生きるより、どこかだれも知らないところへ行って新しい人生を始めようかなというのは自然な人情かもしれない。

そんな時どの場所を選ぶか。アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアでもいいけど、そんなところへ行くと新たなストレスに見舞われそうだ。日本ですでにかなり精神的に疲れてしまっているところへ新しいストレスはもうたくさん、と誰しも思うにちがいない。というわけで神々が心を癒してくれるバリのような場所が選ばれるのかもしれない。  

もうひとつバリに住む日本人で多いのはバリ人と結婚している日本女性である。 バリへ遊びに来て知り合い結婚までいったという人達で、私の知る範囲では現在20代後半から30代半ば、子どもが2人くらいという層が一番多い。日本女性はバリの男性にとても人気がある。まず色の白さがちょうどいいのだそうだ。白人だと白すぎる。バリ人は黒い。ちょうどいいのが日本人の白さ。それに日本人の女性はかわいい。お金も持っている。このお金を持っているというのは時々悲劇を生む。お金目当てのジゴロも少なからずいるからだ。惚れた勢いで結婚したものの取るものを取ったら別の女に乗りかえる悪者もいる。一時日本の週刊誌でもこういう例をとりあげてスキャンダラスにバリをレポートした時期もあったそうだが、全部がそうだと思われるのは幸せに結婚している人達にとってはいい迷惑だろう。貨幣価値が全くちがい、日本の20分の1くらいの給料で生活するのは愛がなければできるものではない。  

最近私の身近な女性の悲劇を聞いた。Aさんはバリ人の夫と結婚して10年。夫は一流ホテルで重要なポストにつくいわばバリではエリート。その夫が同じ職場の若い女性B子と恋に落ち、B子はすでに身ごもっているという。夫の言い分は 「B子といっしょになることは神からの指令(神の声が聞こえる)でB子から自分は徳を得てさらに高い位置に上がれると約束されている。B子を第2夫人にすることを許してほしい」私が「そんなの都合のいい作り話じゃないの」と言うとAさんは「本当に信じ込んでいて、前はそんなことなかったのに最近は毎日のお供えも自分で供えてまわるの。まるでオウムみたいにとりつかれているのよ。私には前よりも優しいし、でも私はB子を第2夫人にするなんてとうてい受け入れられない」結局Aさんは子どもをふたり連れて別居することになりそうだ。私が思うにこの夫は自分がやったことの言い訳に神を持ち出したが、最初は作り話だったのがそのうちいつしか信じ込むようになったのではないだろうか。  

バリには日本企業が少なく、航空会社、ホテル、旅行代理店に日本人が数人ずついるくらいだ。企業よりも個人としての日本人の方が圧倒的に多数だ。以前3年半暮らした中東のクエートでは日本人はほとんどが企業とその家族だったので、何かにつけ企業の格、また企業内での序列が問題になった。それに比べればバリの日本人の方がいろいろな人がいて(自由人、ちょっと変わった人、一匹狼)個人の顔でつきあえるのでおもしろい。変に遠慮したり肩肘張ったつきあいをしたりしなくてすむのがいい。

バリ島の夕陽 (Sep ’00)

今日もバイパスを車で帰りながら夕陽を見る。雨季が近づいてきて曇り空が多くなってきたが、今日は雲にじゃまされることなく真っ赤な夕陽が見える。サヌールからクタに近くなるあたりとクタから南下してジンバランあたりで、椰子の木のむこうに夕陽が見えるいいスポットがある。ガイドブックに載っているサンセットポイントでなくても、毎日ふつうの場所で夕陽が見られるのは、バリに高い建物がないおかげである。そして、私がバリを離れたあとバリを思い出す時、まず思い浮かべる情景としてこの椰子の林にしずむ夕陽があるだろう。

夕陽がせなかを押してくる

まっかな腕で押してくる

……

さよならさよなら……

ばんごはんが まってるぞ

あしたの朝 寝すごすな

この歌は長女が小学校の頃習った歌で阪田寛夫という人の詩だったと思う。……のところは忘れてしまったが、夕陽のダイナミックさとその中を遊びつかれて家に帰るこどもたちの姿がシルエットになって、私が大好きな歌だった。きょうの夕陽もぐいぐい背中を押してくる様に迫力のある夕陽だ。

バリにはいくつか夕陽で有名な観光スポットがある。たとえばタナロット寺院。海にせりだした岩の上にお寺があり、その後ろに夕陽がしずむ。初めてバリへ来た時ガイドさんが連れて行ってくれた。夕陽が見える場所には竹製の椅子とテーブルが並べてあり、たくさんの観光客が座って飲んだり食べたりしていた。私たちも有無を言わせずそこに座らされて、何かを注文する事なり、私は「ココナッツジュース」(要は若いココナッツを割ったもの)を美葉子は「フライドアイスクリーム」(?)を頼んだ。まわりは写真を撮る観光客と木彫のおみやげ品や絵葉書を売る売り子でごったがえしていた。ココナッツジュースは生ぬるくて塩水のような味がし、フライドアイスクリームはてんぷらのころもの中にアイスクリームが入っていて、気持ち悪くあぶらぎっていた。夕陽は、というと、アイスクリームと格闘しているうちにいつのまにか沈みかけていて、あわてて写真を撮った。今でもタナロットというと、夕陽よりもこのフライドアイスクリームが思い出されて、胸焼けがしてくる。いやいやきっといい場所もあるはずだと思うのだが、なかなかもういちど足を運ぼうという気になれないでいる。

ウルワツの夕陽も有名だ。ここは何回か行った。ブキット半島(バリの一番南の部分)の西の果てにある。断崖絶壁の上には寺、足元には白い波が打ち寄せ、海はおだやかで静か、いくつかの漁船が浮かんでいるのが見えることもある。

夕焼け、海の夕焼け

真っ赤なわかれの色だよ

誰かに恋をして

激しい恋をして

夕陽が泣いている

昔のグループサウンズ、スパイダースの「夕陽が泣いている」。人が少ない日には、静かに波打つ海に沈む太陽は時に「泣いている」ように見えることもある。

ただし、そう、ただし、がつく。ただし、猿にじゃまされることがなければ、である。ここの猿は悪質だから注意が必要だ。日によって多かったり少なかったりするのだが、観光客が多くなると猿も多くなる。そして、客の眼鏡、バッグ、イヤリング、ネックレスなどを、みごとなすばやさでかっぱらう。取られて、あっどうしよう、と思っていると、すかさず横から男が現れてえさを放り、猿からその物を取り返してくれる。この「取り返し屋」はそのあと客から5000ルピアなり10000ルピアなりの謝礼をもらうことになる。私は今のところ被害にあったことはないが、知人で少なくとも5人は被害にあったという話を聞いているし、現場を目撃したこともある。もしかしたら「取り返し屋」が猿を仕込んでいるのではないか、とさえ思えてくる。猿さえいなければ、私はウルワツをバリの好きな場所ベスト5に入れてもよいと思っている。夕陽の時刻でなく、朝でも気持ちの良い場所だ。

バリの夕日

バリの夕日

サーファーの集まるクタビーチはまた違った夕陽だ。クタ、レギャン、スミニャックと続くビーチには、海で遊びつかれた若者達が、満足そうな幸せそうな顔をして三々五々しゃべったり戯れたりしている。少し離れて見ると、沈む太陽を背にみんなが切りぬきのシルエットの様に見える。座っていたり、走っていたり、ふざけていたり、恋人がよりそっていたり、動いているけど絵のような、そんな風景。

ぎんぎんぎらぎら 夕日がしずむ

ぎんぎんぎらぎら 日がしずむ

まっかっかっか 空の雲

みんなのお顔もまっかっか

ぎんぎんぎらぎら 日がしずむ

みんなが幸せそうに見えるのはいいことだ。そんなこんなで、いろいろな夕陽を思いながら家路についた。その夜、日航ホテルに泊まっている友人3人から電話があった。「きょうね、斎藤さんがすすめてくれた夕陽を見に行ってきました。クロボカンのルチオーラというレストランでお茶を飲みながら見た夕陽はきれいでした」「私も見た見た、きれいだったね」そうか、私が車の中から夕陽を見ていた頃、彼女たちも同じ夕陽を見ていたのだ、と思うと、なんだかそれだけで嬉しくなった。

日本で1ヶ月(Feb ’01)

21世紀が無事明けた1月3日の夜、日本へ一時帰国した。当然バリに冬服は置いていないので荷物も少なく、ほとんどがコーヒー、紅茶、お菓子、民芸品といったおみやげ物。ジャケット1枚だけはスーツケースの中に入れておいた。

いつもはジャカルタ経由なのだが、この日は臨時便でダイレクトに関空へ到着したので楽だった。関空に着いたのは早朝6時。思ったより暖かった。

今回の帰国の主な目的は、真樹の大学受験応援のため。いつもは友恵とふたりで家事もこなしているのだが、せめて受験の真っ最中くらいはご飯をつくってやりたいという気持ちがあった。真樹は高校受験の時もひとり北海道にいて、親と離れた場所で受験勉強だった。今回もまた姉とふたりの共同生活の中で1年間浪人生活を送ってきたわけで、そのせいか、非常にストイックに規則正しく、かつ戦略的に自分を律して来たようだ。その自律性は夫のものか私のものかと考えたが、どちらでもない。親の転勤で転校した箕面の中学生活を受け入れられなくて、古巣の千歳の中学にひとり舞い戻ったのが中学3年の夏。知り合いの老夫婦の家に下宿させてもらい中学卒業までお世話になった。高校2年の冬からは1年間、オーストラリアのタスマニアでホームステイしながら地元の高校に通った。そんな他人の中での生活が自律の精神を養ってくれたのなら、まさに“かわいい子には旅をさせよ”である。

さて、この1ヶ月、家事全般をとりしきりながらも、私には時間がたっぷりあった。バリへ行く前の日本での生活は、なんやかやのアクティビティーのおかげで、出かける事も多く電話もよく鳴っていた。でも今は良くも悪くも私を拘束するものは何もない。それでこの休暇は本と映画に明け暮れる事にした。

ここ7、8年、亀のようなあゆみで翻訳の勉強をしている。それが最近やっとおもしろくなってきた。英語のフィクション、ノンフィクションを日本語に訳すのである。実は30年近く前、私は大学の英文科を卒業したのだが、当時は文学なんぞ一度も面白いと思ったことはなかった。あの頃あまり勉強しなかったのは大学紛争の時代だったから、と言い訳することも多いのだけど、本当は文学に興味がなかったのだ。

最近翻訳関係の本をいくつか読んで、自分がいかに本を(とくに英語で書かれた小説を)読んでいないかを痛感した。これでよく「翻訳をやります」なんて言えるよなあ、と恥ずかしくなる。今回、いちばん私に刺激を与えてくれたのは、村上春樹、柴田元幸、共著の『翻訳夜話』という文春新書。ふたりとも翻訳が好きで好きでたまらない、という御仁である。村上春樹は言わずと知れたベストセラー作家、柴田元幸は東京大学の先生であり、翻訳家であり、名エッセイストである。わたしはそれまでに柴田のエッセイを読んで、すでに彼のファンになっていた。この本の中で面白かったのは、村上のオハコであるレイモンド・カーバーの作品と柴田のオハコであるポール・オースターの作品を、それぞれふたりが両方とも翻訳し、全文を掲載していることである。原文は同じなのに、翻訳者によってずいぶん雰囲気が変わる。翻訳という作業は、‘原文に忠実に’が原則でありながら、なおかつ翻訳者の個性と発想の自由さを秘めたものなのだ。

この本をとっかかりに、私はかたっぱしから本を読むことにした。ポール・オースター『ムーン・パレス』、現代アメリカ作家のアンソロジー『現代アメリカ小説短編集』、スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』、別宮貞徳『やっぱり誤訳だったのか』。さらに書店へ行って原書も求めた。いつも買っては最後まで読みとおせないので、今回は中身を吟味し、読みとおせそうな英語で書いてあって、読みとおせそうな長さの物を選んだ。そして読んだのがミッチ・アルボム『チューズデイズ・ウイズ・モリー』。アメリカでベストセラーになり、日本でも評判になったと思う。これは原書を読み通せた。うーん、ひさしぶりの達成感。内容もよかった。それでそのあと別宮貞徳の翻訳『モリー先生との火曜日』の方も読んだが、さすがの名訳であった。それからリリアン・ヘルマン『ジュリア』。これは友恵の大学での英語のテキストだ。彼女の書きこみのおかげで楽に読むことができた。『ジュリア』は確か、ずいぶん前に映画で見たと思う。そして今読んでいるのが『レイモンド・カーバー短編集』。他に数冊買い込んできたので、バリの雨季の雨音を聞きつつ、楽しみながら読みたいと思う。なんというぜいたくな時間!

今回は映画もよく見た。ビデオとテレビ両方で。最近、題名も内容もすぐ忘れるので、題名だけでも記録しておこう。『心の旅(リガーディング・ヘンリー)』、『ビューティフル・ライフ』、『グラス・ハープ』、『ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ』、『アナライズ・ミー(アナライズ・ディス)』、『雲の上の散歩』、『ディープ・エンド・オヴ・オーシャン』、『もののけ姫』、『微笑をもういちど』『モンタナの風に抱かれて(ホース・ウィスパラー)』、『シャル・ウィー・ダンス』、『ロング・ウエイ・ホーム』、『エリザベス』。もっとあったかもしれないが、思い出すのはこれくらい。よく見たものだ。

本と映画で家にこもっていた時間も長かったが、まるっきり出かけなかったわけではない。何人かの友人達と久しぶりの再会も楽しんだし、日本のきれいなスーパーが嬉しくてほぼ毎日買い物にも行った。車も無いし、時間がたっぷりあるので、よく歩いた。日本にいても時間に追われないというのは、嬉しい事だった。

1月6日には友恵と美葉子の女三人で勝尾寺へお参りに行った。箕面駅までバスで行き、そこから歩く。滝を経由して勝尾寺まで約7キロ、往復14キロを歩いた。山の上の方では雪が吹雪いた。「八甲田山はこんなものじゃなかったんだから」と言い言い、歩いた。(もっともふたりは八甲田山を知らなかった)1月25日には、私ひとりで京都まで行った。北野天満宮の初天神だ。あいにく雨の日で店も客も通常より少なかったらしいが、それでもけっこうにぎわっていた。陶器、古布、骨董品のたぐい、花、それにお好み焼きやおでんなどの食べ物やさんがずらりと並び、おもしろかった。2回もぐるぐるまわってしまった。帰りがけに気にいったお皿があったので、5枚買った。手描きではないけれど菊の模様が入った明治時代のもので、まけて、と言うと、本当は1枚2000円なんだけど今日は雨で早く帰りたいから500円でいいよ、とお兄さん。

さて、肝心の真樹の試験はというと、まずセンター試験は不首尾だったようだ。過去問をやった時はもっとできたのに、センターでひとつかふたつ合格を決めたかったのに、といささか落胆の気配だった。まあ、気持ちを切り替えて各大学での試験に臨みなさいよ、と友恵とふたりで激励する。センター試験が終わってからも、朝10時に家を出て会館で勉強し、夜9時に帰ってくるパターンは変わらなかった。

一方、バリの方では、私より2週間先に帰った美葉子と夫がふたりでなんとかやっていた。一番性格が似ているがために一番ぶつかりあいが多いふたりなのだが、さすがふたりだけとなると助け合ってやっているようだった。夫が夜のシフトの時は近所の方が美葉子を食事に呼んでくれたり、何かとお世話になっているようだった。時に電話をしてきては「みそは冷蔵庫に入れるの?」とか「この缶切り、どうやって使うの?」と聞いたりしていたが、ハンバーグ、スパゲッティ、カレーくらいは作れるようになったらしい。

日本とバリの生活がどちらも気になっていた。結局2月4日、本命の試験日に真樹を送り出したあと、私もバリへ帰るために空港へ向かった。その夜の電話では「手ごたえあった」と声が明るかったのでほっとした。これを書いている今もちょうど試験を受けているはずだ。なんとか希望のところへ入れるとよいのだが、とバリのよろずの神々に祈っている。

「江戸川」という鰻屋(Feb ’01)

日本からお土産にいただいたおいしい鰻を食べながら、思い出すことがあった。  地下鉄御堂筋線「難波駅」の改札口を出てすぐのところに「江戸川」という鰻屋がある。以前ここをよく通った頃、ショーケースの中にうな重やうな丼などと並べて置いてある「おひまつぶし」という代物が気になっていた。直径30センチくらいの塗りの桶にご飯と鰻が何層かに重ねられ、中が見えるように桶を切って断面を見せている。ふーん、こんな大きな桶で鰻を食べるなんて、よっぽど「おひま」な人なんだなあ、と思ったものだ。

ある日、夫とふたりこの「江戸川」に入ることがあった。なかなか人気のある店らしく、昼食時は混んでいた。2人がけのテーブルもいくつかあるので、ひとりのお客さんでも入りやすいようだ。すこし待って席に着き、メニューを見て驚いた。ずーっと「おひまつぶし」だと思っていたものが、実は「おひつまぶし」だったのだ!

ご飯と鰻がかわりばんこに重ねてあって、そこにたっぷりのわさびと刻みねぎを加え、しゃもじでよーくまぜて食べるのだ。わさびがきいていてなかなかおいしい。おなかいっぱいになってくると、最後はお茶漬けにしてくれる。それに、ショーケースの大きさでなくても、2人なら2人用に作ってくれる、当然のことながら。

あとでわかったのだが、義父がまだ生きていた頃、義母と2人で箕面の我が家へ来た帰りに、難波から近鉄に乗りかえる前によくこの店で鰻を食べたのだそうだ。いわば、ふたりの思い出の場所なのだ。ふたりはたぶんとっても「おひま」な人達ではあったが、量が多いのでこれは食べた事がなかったそうだ。

それで、義父が亡くなった後、義母が箕面へ来ると、帰りに難波まで送って行き、近鉄の時間までここで鰻を食べるのが、私と義母のおきまりになった。鰻を食べながら、義母はぽつぽつと義父の思い出話などをするのだった。

最近日本に帰った時、久しぶりにこの「江戸川」へ行くことがあったが、例のショーケースの中の「おひつまぶし」が一人用くらいに小さくなっていた。ははーん、私みたいに「あんなの‘おひま’な人が食べる物」とか「食べきれないよ」とか思う人が多かったんだなあ、と我が意を得た気がした。

麻雀の効用(Feb ’01)

日本を離れてバリ島のようなところに住んでいても、世界は意外にせまいな、と思わせられる出会いがあるものだ。そのひとつ。

「あちゃら」というバリ島旅行情報誌を発行している五十嵐さんはテニス仲間だが、そのアシスタントをしているゆかちゃんという女性が、我が家へ遊びに来たことがある。その夜は我が家で麻雀卓を囲むことになっていて、ゆかちゃんは新しいメンバーだった。

夫と私の麻雀歴ははるか30年前学生時代にまでさかのぼる。何事も教え好きの夫は、私に役の名前から点数の数え方まで、ていねいに教えてくれた。その後結婚して、だんだん遊ぶチャンスは少なくなったとはいえ、夫はつきあい麻雀もあるし、私の方もけっこうチャンスを見つけては楽しんでいた。上大岡の社宅ではたまたま麻雀のできる友達が3人見つかって、家事の合間をみつけては遊んだ。ちょうど真樹がおなかにいる頃で、ああ、この子はパイの音を聞きながら育ってるねえ、なんて言われていた。クエートに住んだ時はもっと盛んだった。楽しみの少ない国だったので女性も覚えて楽しむ人が増え、日本人会の麻雀大会などは、ホテルのボールルームを借りて、大使夫妻をはじめ100人以上(つまり30卓近く)のにぎやかなものだった。我が家の麻雀卓もこの頃買ったものだ。大阪へ帰ってからはお向かいのご夫婦と、千歳では、会社の若い人達に、夕飯ごちそうするから、と誘って遊んでもらった。2度目の大阪ではほとんどやらなかった。他の事が忙しかったせいもあるが、若い人達が麻雀をやらなくなったせいもある。そしてバリへも雀卓を持ってきた。バリには独身の男性が多いので、やはり夕食つきで、ときどき遊びに来てくれる。ここではパイを混ぜる音も気にしなくていいし、「まぜさせて」とか「あっ、しろいのがある」とか手や口を出していた子ども達も大きくなって、じゃまされることもなくなった。

閑話休題。さて、そのゆかちゃんだが、23歳の若さでどこで麻雀覚えたの、と聞くと、家族麻雀です、と言う。それから家族の話になって、お父さんがJALの人で、現在パラオ日航ホテルのジェネラルマネージャーをされている。よく聞くと私たちが千歳時代に半年だけ住んだ社宅にもいたそうで、ただ少し時期がずれていた。しかし話しているうちに共通の知人がたくさんいることがわかった。へーっ、世の中せまいねえ、という話しになったのだった。

それから数ヶ月して、ゆかちゃんのご両親がバリに彼女を訪ねて遊びに来られた。ご両親も麻雀大好きな人達で、ゆかちゃんから電話があり「ぜひ斎藤さんご夫婦と麻雀をやりたいと言ってます」ということで、我が家を訪れてくださった。夫はゆかちゃんのお父さんの顔を見て、初対面ではないことがわかった。

あまり時間がなかったので、話もそこそこに麻雀にはいった。おふたりの麻雀は年季が入っていて、しろうとの域を越えて上手だった。「パラオへ行ってご主人といっしょに住まれないんですか」と聞くと、「87歳になる姑がいるんですよ」と言われる。「ああ、そうですか」と納得した私は、こんな明るいお嫁さんだったら介護してもらうお姑さんもしあわせだろうな、と勝手に思っていた。「インド駐在だった時はひまだったから、よく麻雀してたんですよ」「じゃあ、今はあまりできないですか」「いいえ、ご近所の方を呼んでよくやります。姑が好きなんですよ」ええーっ、87歳のお姑さんが麻雀をされる?「そうなんです。高かったんですけど、電動の麻雀卓を買って、家でしょっちゅうやっているんですよ」……

驚いた。87歳という年齢を聞いただけで介護と結びつけた私も早計ではあるが、まさか麻雀を楽しんでいる87歳は想像できなかったのだ。なんとすてきな87歳だろう。いろんな87歳があるものだ。指先と脳を使う麻雀はボケ防止にいいと言われる。勝ち負けにこだわると血圧が上がるかもしれないが、家族麻雀で、しかも嫁と姑がいっしょになってわいわいできるのはとてもいい光景ではないか。

その夜の勝ち負けはどうだったのか覚えていない。ご夫妻とは3時間くらいいっしょにいたが、ほとんど手元とパイを見ていたので、今、顔を思い出そうとしてもあまり思い出せない。ただ87歳のおばあちゃんが麻雀している姿だけが、イメージとして強烈に私の中に残ったのだった。

ブドゥグルとシガラジャ(Mar ’01)

ブドゥグルはこれまで5回くらい行ったことがあるだろうか。今回ご一緒したのは、1年間一緒に日本人会女性部の役員をやってきた、友子さんと純子ちゃん、それにインドネシア語講座の先生、久美子さんと1歳半のあゆちゃん。

ブドゥグル寺院

ブドゥグル寺院

昨年のクリスマスにカフェを開いた宮川雅子さんが、女性部をご招待してくださった。宮川さんはバリに住んで15年。もともとハンダラ廣済堂でゴルフコーチをされていたそうだが、そこでやはりコーチのバリ人のご主人と結婚され、廣済堂をやめたあと、カフェをオープンされたというわけだ。

この朝は、デンパサールの車の混雑を抜けるのに1時間以上かかった。10時半にサヌールを出たのに、ブドゥグルに着いたのは午後1時すぎ。街道沿いにひときわ明るく目立つクリーム色の「カフェ・ルンピナ」があって、宮川さんが今か今かと私達を待っていてくださった。車を降りた瞬間、ひんやりとした空気が心地よかった。山間地の静けさと山の頂上を隠す霧が、心を落ち着かせる。ここは下(街のことをここでは下とか、下りるとか言う)よりも5℃は気温が低いだろう。

門の中に足を踏み入れて驚いた。ここはバリじゃない。まるで南フランス(行ったことないけど)。かわいい花々と芝生を植込んだ前庭。その中央に植えられた、シダの木の名前が、店の名前になっている「ルンプナ」なのだそうだ。テラスにはおしゃれなテーブルと椅子が置かれ、その後に、ひまわり模様のタイルを外壁に配置したクリーム色のカフェがあった。私達は「うわーっ」とか「すてきー」とか、少女(?)のような歓声をあげながらカフェの中に招き入れられた。

内部は壁が淡いブルーに塗られている。床は落ち着いたクリーム色のタイルを基調にして茶色のタイルのアクセント。壁の中央に作られた暖炉では、乾季の寒い夜には、薪が焚かれる。白い枠の窓が店内に明るい光を採り入れていた。出窓にはチェコグラスに入れたお花がきれいだったが、この出窓を作るのには大変苦労したそうだ。出窓など作ったことがないトゥカン(職人)には、口で説明してもわかってもらえない。絵を描いて見せても、絶対に一度では思い通りには作れない。結局つきっきりで、ああだこうだと指示することになったそうだ。

宮川さんは何でも自分で作る人なのだ。設計も自分で、材料もタイルから窓枠まで全部自分の目で見て決定した。気にいるものがなかったら見つけるまで時間をかけた。妥協をしなかったそうだ。テーブルにセットされたランチョンマットやコースターもすべてミシンで手づくり。このお店を作るのには時間もかかっただろうけど、それはきっと楽しい時間だったんだろうな、と想像できる。

料理はおいしかった。私達のために「特別おまかせコース」を用意してくださった。ちんげん菜とコーンのスープ、自家製野菜のサラダ、ほろほろとやわらかいビーフシチュー、自家製ケーキとヨーグルトにトラジャコーヒー。どれも絶品だった。特に感動したのはサラダの野菜。レタス、セロリ、ルッコラ、春菊のいずれもが自家製とのこと。そう聞くと私達は、どうしてもその菜園が見たくなった。

お店の裏手の坂道をだらだらと上って行くと、ご主人の親戚の家にはさまれて菜園があった。そこには、私達がサラダでいただいた、レタス、セロリ、ルッコラ、春菊、それに日本のねぎが、健康優良児のように元気いっぱいに植わっていた。宮川さんはこの畑に来る時間が大好きなのだそうだ。そうだろうと思う。野菜が元気に大きくなるのを見ると、自分も元気になるにちがいない。こういった野菜は、「下の」街ではなかなか育たない。このブドゥグルの気候ならではの産物なのだ。野菜を見せてもらう私達のまわりには、親戚の人達、子ども達(地面に桝目を書いて小石を並べて、おはじきのような遊びをしていた)だけでなく、犬や猫や鶏が集まってきた。「野菜をおみやげに持って行ってください」と、ご主人のお母さんといっしょに、フレッシュな野菜をビニール袋に入れてくださった。感激。その晩の我が家のメインディッシュは、もちろん大盛りフレッシュサラダだった。

宮川さんに何度もお礼を言って、私達は「カフェ・ルンプナ」を後にした。久美子さんのご主人の実家がここから10分の所にあり、ご主人とふたりの息子、カルタ君とタクマ君が待っているということなので、送りがてら、私達もシガラジャまで行くことにした。ブドゥグルから少し北へ上るとそこはもうシガラジャ県になる。実家は、シガラジャの町へ行く道から左へ入った、ブーヤン湖を見下ろすところにあった。このあたりから見下ろすブーヤン湖は素晴らしい。北海道の美幌峠から見下ろす屈斜路湖を思い出させる。

「夫の仕事のため無理だけど、本当はこどもたちを田舎で育てたい」と言っていた久美子さんだが、おじいちゃん、おばあちゃんの家で、カルタ、タクマの両君は裸足でかけまわり、すっかり田舎の子になっていた。そこでも、宮川さんのところと同じように、家族の人達がぞろぞろと出てきた。だれがだれなのかよくわからないが、こうやってみんなで出迎えてくれるのがバリの人達のホスピタリティーだ。その中にカルタくんたちのひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんがいて、「歳はいくつですか」と聞くと「100歳」と言われる。「昔のことだからよくわからないけど、100歳までいかないとしてもそれに近いかな」と久美子さんのご主人の説明。腰も曲がっていないし、話もしっかりしている。ひいおじいちゃんは「長いこと畑仕事をしてきたから、こんな手だよ」とごつごつの手を見せてくれた。さわってみると硬かった。指の節のところが、特に右手の指の節がずいぶん太かった。「写真を撮ってもいいですか」とお願いすると、ふたりで並んで座ってくれた。おしゃべりしていたさっきの表情とちがって、かなり緊張した様子でこちらを向いてくれた。ここでも私達はシガラジャ特産の(この実家でも栽培している)、バリコーヒーをおみやげにいただいてしまった。

シガラジャにも別れを告げ、街へ帰りながら、きょう来てよかった、と私は思っていた。 今まで知らなかったバリを見つけた気がした。これからは、日本のお客さんが来たら、クタやウブドばかりでなく、ぜひ北の方へ連れて行ってあげたい、と思った。もっとも、2,3時間のドライブは何ともない、という人に限るが。

Nyepi(ニュピ)(Mar 25 ’01)

3月25日はヒンドゥー教の新年にあたるニュピだった。ヒンドゥー教にはサカ暦という暦があり、そのサカ暦の1月1日にあたるわけだ。「じゃかるた新聞」から抜粋して、ニュピについて説明すると……ニュピとはヒンドゥー教サカ暦の元旦のこと。この日は、午前6時から翌日の午前6時までの24時間、以下のことが義務付けられている。①アマティ・グニ。自己の規制として欲望の火をつけない。実際の火、照明も使用しない②アマティ・カリャ。自己を浄化する精神活動を行ない、通常の活動、仕事は行わない③アマティ・レルガン。外出をせず、神への思考を高めつつ、自己反省を行なう④アマティ・レラグアン。行楽行事を避け、精神を鍛え、その向上を目指す……

さてそのニュピの前日のこと、近くのトラギア・スーパーマーケットへ行くと、5つあるレジに10人ずつくらい客が列をなしていた。翌日は当然のことながら、すべての店が閉まるからだ。そういえば、その前の日のティアラ・デワタもすごい人だった。まさに「年の瀬」の買い物風景だ。それで買い物はあきらめて、美葉子とふたりでVCDのレンタルショップへ行った。ここも、いつもならだれも客はいないのに、3組もいてニュピのひまつぶし用を探している。私達も2本洋画を借りて家に帰った。美葉子はその他に、さる日本人から回ってきた、ダンボールいっぱいのコミック50巻を部屋に置いて、準備万端。

オゴオゴ

オゴオゴ

オゴオゴは去年見たからもういいかなーと思っていたところへ、近所の龍くんから「パパは仕事、ママは風邪だから、おばちゃんオゴオゴ連れて行ってくれる?」と電話。いいよ、いいよ、行こうね。オゴオゴというのは、高さ3,4メートルくらいの張りぼて人形で、たいていは鬼の姿をしているが、時にドラゴンだったり、魔女だったり、くれよんしんちゃん(!)だったりして、魔よけの意味があるそうだ。各町内会が競って作った電飾のオゴオゴを、若者達がニュピの前夜にかついで練り歩くのだ。青森のねぷたを知っている人は、それに似ていると言う。というわけで、夜はご近所誘い合わせてオゴオゴ見物。ヌサドゥアの交差点は、地元の人達だけでなくホテルからの観光客で溢れ返っていた。2年目でもやっぱり結構おもしろかった。

ニュピ当日。私達が住むところは長期滞在用のスイーツ。昨日あたりから、ニュピを過ごす為のお客が多く、いつも静かなプールがうるさいこと。まあ半分ホテルみたいなものなので、敷地の外へ出ない限り、普通に生活できる。たいていのバリニーズは1日静かにニュピを過ごすらしいが、あまり敬虔でない人達やヒンズー以外の人達は、前の日からホテルに泊まり込む人達も多く、そういった人達向けにホテルは「ニュピ特別パック」を用意している。

さて、私達はというと、朝はゆっくり起きて、夫と娘といっしょに朝ごはん。洗濯しながら、コンピュータでメールをチェックして返事を送る。少しコンピュータで遊んでから洗濯物を干した後、「お昼はきのうのカレーがあるから、好きな時に食べてね」と言うと、テレビを見ている夫と娘を置いて私は寝室に入る。きょうはどこへも出かけないから読みかけの本がゆっくり読める。ふだんでも時間がありそうなものだが、なんだかんだと出かける事が多い。今日のように「出ちゃダメ」ということになると、安心して本が読めるというものだ。一冊読み終わったところで、のそのそとリビングへ出てきて夫と昼ご飯。普通の一戸建てだったら、カーテンを全部閉め切って食べなければならないところだが、ここではその心配もない。そのあとまた読書のつづき。読んでいるうちにうとうとしていい気持ちになった時、夫が入ってきて「テニスの特訓、特訓」。それでこのスイーツの中にあるテニスコートで娘といっしょに特訓を受けることになった。

そのうち雨が降ってきたので家へもどったが、プールにだれもいなくなったのを見て、美葉子とふたり泳ぎに行くことにした。雷と激しい雨の中で、水中ダイエットウォークなんぞやっている親子を、ベランダからめずらしそうに見ているお客もあった。

夕ご飯を3人で食べて、ベランダへ出てみた。照明が消してあるのでいつもと違って真っ暗なプールの上空に星が見えないかなと思ったのだが、残念ながら曇り空で星はまったく見えなかった。何もニュピらしくないここの生活だけど、星空だけは期待していたのだ。残念。

それで、またいつものように台所の後片付けをして、お茶を飲んでニュピの一日は終わった。今日は一年に一度、空港も閉鎖になるので飛行機も飛ばないのだけど、できることなら、真っ暗なバリを上空から見てみたいものだと思った。

バトゥール山(Apr ’01)

バリ島の北東部に「キンタマ-ニ」という、日本語で口にするにはちょっとはばかられるような名前の地区がある。バリで一番大きな湖、バトゥール湖を抱える巨大なカルデラ地区で、中心にバトゥール山(1717m)という休火山がある。カルデラの外輪山から、いまだかすかな煙を吐くバトゥール山とバトゥール湖をながめるのが、観光のコースになっている。

2年半前に初めてバリへ来た時訪れたが、外輪山のホテルのレストランから見た風景は美しかったものの、道を歩いている時の物売りのしつこさに辟易して、それ以来あまり行きたいとは思わない場所だった。この地の物売りのしつこさは有名だが、それはこの地の貧しさをも表しているということが、今ならわかる。

バトゥール山

左から弥生さん、娘、私

そのバトゥール山に登りませんか、と誘ってくれたのは友人の弥生さんだった。弥生さんは私と同じ、バリでは数少ない駐在員の奥様で、30歳をちょっと過ぎたところ。物静かな見かけによらずその好奇心はつきることがなく、バリを精力的に楽しんでいる人だ。バリを紹介する情報誌のライターをしたり、アルバイトで「地球の歩き方」の現地取材をひきうけてたりしている。

ちょうど美葉子の学校が春休みだったので、美葉子、弥生さん、私の3人でバトゥール山へ登ることにした。15歳、32歳、50歳の3世代(!)登山だ。なにしろ登山なんて、この長い人生経験の中で、20代の時登った滋賀の比良山と北海道の旭岳から層雲峡への縦走コースの2回だけ。最年長の私が足を引っ張らない様にしなければ、と一抹の不安もないわけではなかったが、「ふつうの体力があれば大丈夫です」という現地の方の言葉を信じることにした。

4月6日金曜日、ヌサドゥアからキンタマ-ニまで車で2時間半。近づくにつれて車の冷房もいらなくなり、あとの2人が「耳がつーんとする」というほど高地へきたことがわかる。それもそのはず、ここはすでに標高1000メートルのところなのだ。ん、ということはあと700メートル登ればいいってこと?と思ったが、「あしたはあれに登ります」と運転手さんが指した山はとても険しく見えた。

その夜仮眠をとるコテージは「レイクサイド・コテージ」といって、外輪山からカルデラの中に下りて、本当にレイクサイド(湖のすぐそば)にあった。バリへ嫁いで6年というオーナーの喜代子さんが迎えてくれた。控えめで地味な人だったが、5歳の坊やと遊んでいるご主人を横目で見ながら、ひとりでコテージをきりもりしている、頼もしい典型的なバリの奥さんになっていた。レストランの壁には、昨年ここを訪れた女優の秋吉久美子のサインと写真、それに副大統領のメガワティ一行の写真があった。メガワティ訪問の時はPDI(メガワティの党)の熱烈な支持者であるご主人の優柔不断で、一行の食事代を請求しそびれてしまった、という話だった。

さて、翌日4月7日、午前3時半にはガイドさんが起こしてくれた。となりの部屋に泊まっていた京都から来たというお嬢さん2人も合流して、日本人5人とガイドさん2人の合計7人のパーティーとなった。4時に懐中電灯を各自手にしてコテージを出発する。もちろん真っ暗だ。空には黒い雲が垂れ込めて雨もぽつぽつ降っている。もしかしたら頂上からの風景はあまり望めないかもしれないということだったが、ここまで来たのだからと登ることにした。畑の間を通り、人家の前では犬に吠えられ、だんだん山の中へ入っていく。いちおう道はあるが、目印もない真っ暗な山道をよくまちがえないものだと思うくらい、ガイドさんは右へ左へさっさと歩く。Tシャツの上に長袖パーカー長ズボン、寒いといけないからもう1枚長袖シャツを腰に巻いていたが、すぐに汗ばんできて、パーカーを脱いだ。歩き始めてすぐに、京都のお嬢さんが続けてころんだ。ん、まだ平地だぞと思ったが、なにしろ真っ暗なうえに、木の根っこや道のでこぼこが足をとる。

だんだん上り勾配になってきて、それまでおしゃべりしていたのがだんだん寡黙になりみなひたすら歩きつづけた。はあはあという息だけが聞こえる。「ちょっと休憩しましょう」とガイドさんが言って一休み。時計を見ると、ずいぶん歩いたつもりだがまだ30分しかたっていない。頂上までは約2時間の予定だ。心配していた雨もやみ、水を飲みながら空を見上げると雲の間から一部分ほんとうに美しい星空が見えた。あたりは静かでかえるの鳴き声だけが聞こえる。

さらに歩いていくうちに、普通の山道からだんだん岩の道になってきた。懐中電灯を照らしてみると、ごつごつとした溶岩の塊の様だ。バトゥール山はこれまでに何度か大小の爆発をしている。近年では1917年と1926年に大爆発があり、1926年の爆発では1000人以上の人の命が奪われるという大惨事になった。一番近くでは1999年の小さな爆発。 2年半前に来た時見たのはその名残りの煙だったのだとわかった。

溶岩の道を歩いている途中で美葉子がばててきた。「チアノーゼだー」と最初は冗談めかして言っていたが、だんだん気持ち悪くなって吐き気がしそうだというので、3人とクトゥットさんには先に行ってもらって、美葉子と私、それにもうひとりのガイドのインドラさんが後からゆっくり行くことにした。それからは5分登っては休み、また5分登っては休みというペースでゆっくりと歩いた。座って下を見下ろすと、灯りの所在から湖沿いにいくつかの村があることがわかる。湖は暗闇の中に白く浮き上がっている。インドラさんが、美葉子を元気づけるかのように、バリの古い民謡を歌ってくれた。

そのうち美葉子も元気をとりもどして、いつのまにか上のグループに追いついた。道も溶岩流から土砂状のすべりやすい道になっていた。その頃には夜も白み始め、東の方向に太陽が昇り始めているのがわかった。あいにく雲が多く日の出は拝めなかったが、明けゆく光の中にバトゥール湖畔の風景が浮き上がってきた。「もう少し、もう少し」と言うガイドさんの言葉に、足をすべらせながらも私達は登り続けた。

そして、やっと登頂成功!360度のパノラマだ。下には雲が流れているので刻々と風景が変わる。さっきまで見えていた湖畔の村が急に雲に隠されたかと思うと、しばらくしてまた現れる。「ほら、あそこから歩いてきたんですよ」というガイドさんの指差す方向を見るとレイクサイド・コテージが見えた。向こうに2000メートル級のアバン山が見え、そのすぐ後にアバン山と重なって、バリで一番高いアグン山(3142m)がそびえている。さらに後には海が見渡せ、その彼方にあるのはなんとロンボク島のリンジャニ山(3726m)だそうだ。私達はそれぞれ静かに感激を味わっていた。風景の素晴らしさもさることながら、へばりながらもみんなで上まで登れたことが嬉しかった。

山頂にはノルウェーから来たという4人連れと、スマトラ島から来たというモスレムの修行僧らしき2人連れがいた。ふと足元を見るとかわいい子犬がじゃれついてくる。まだ3,4ヶ月と思われるガディン(茶色くん)という名のその子犬は、飲み物売りのおじいさんと一緒に夜中からこの山を登ってきたのだと言う。ヘ-っ、お前そんな小さなからだでこの山を登ってきたの、とみんなで感心した。おじいさんの飲み物は下の3倍くらい高かったが、コーラと温かい紅茶を頼んで飲んだ。急にお腹がすいてきた。ガイドさんが「朝ご飯ができてるよ」というので行って見たら岩の穴でゆで卵と蒸しバナナを作ってくれていた。岩は触ると熱く、うっすら蒸気が上がっている。それで、私達は温泉卵と蒸しバナナサンドイッチの朝食を取ることが出来た。おいしかった。ガディンは卵が好きでよく食べたが、パンには見向きもしなかった。やっぱりバリ犬だね、ごはんしか食べないんだろうと私達は話した。

バトゥール湖、湖畔の村、アグン山、海、リンジャニ山、これらのすべてを一度に眺められるバトゥール山頂は素晴らしかった。あとで聞くと、このバトゥール山は大昔、アグン山よりも高い3500メートル級の山だったそうだ。それが噴火を繰り返すうちに、陥没し、湖を作り、村を作りして、今の形に至っている。この姿もまた未来永劫のものではない。またいつか噴火によって姿を変えることがあるだろう。私達はここで、ものすごい地球のダイナミズムを目にしたと言っても、おおげさではないかもしれない。そう思うと、バトゥール山登山に引っ張り出してくれた弥生さんに感謝したい気持ちだった。

サムライ道場(Apr ’01)

バリへ来てから、美葉子はインターナショナルスクールに通いながら、週2回、日本語補習校へ通っていたのだが、補習校は日本の学校制度に準じているので、この3月、日本でいえば中学校を卒業する時期に、美葉子は補習校を卒業した。

それで時間が出来たので、以前からやりたいと言っていた空手をやることにした。道場はその名も「サムライ道場」、レノンの日本領事館の近くにある。まずは見学に行った。そう、100畳に少し足りないくらいの広さだろうか。中央になんだか神棚のようなものがあって、偉そうな人の写真が飾ってある。二面の壁が鏡になっている。「バリ空手会」とか、「師範〇〇」とか、日本語の文字で書いた木札が掛かっていて、入り口には日本の「〇〇大学空手部」のメンバーによる寄せ書きの色紙も掛けてあった。床にはウレタンのマットが敷き詰めてある。

5時から子供の空手クラスが始まった。次々とやってくる子供達は、道場に入る前に一礼をする。インドネシア人の先生の顔を見ると「うっす」というあいさつをする。小学生から中学生のこどもたちが30人くらい、胴着を着ているとなんだか凛々しい雰囲気がある。帯の色も白、黄色、青、緑、茶色とあり、色が濃くなる順番で強くなっていくことがわかる。先生の帯はもちろん黒である。

サムライ道場

サムライ道場

練習を始める前に、全員正座して中央に向かって礼、次に先生に向かって礼をする。次に早口で何かを唱和し始めた。てっきりインドネシア語だと思っていたが、よく耳をすますと日本語で「道場訓」を唱和しているのだった。「ヒトツ、ジンカクノケイセイニツトメルコト」「ヒトツ、レイギヲオモンジルコト」……

それから柔軟体操みたいなことが始まり、そのあといわゆる空手の型みたいな練習があった。「ハジメ」「イチ、ニ、サン」「ヤメッ」など、号令はみんな日本語である。美葉子もまわりを見ながら、見様見真似でやっている。‘やわらちゃん’が憧れの美葉子は、本当は柔道がやりたかったようだが、まあ空手でも強くなれば柔道と同じくらい「クール!」であろう。途中、日本語が上手なライ先生が私のところへやってきて「あなたの娘さんはなかなかすじがいい。力強いですね」と言ってくれた。確かにここでは一番年長ではあるし、体格的にも負けないだけの力強さはある。

ここにいる子供たちはほとんどがインドネシア人で、2,3人日本人とのハーフ、1人西洋人とのハーフがいる。純日本人は美葉子だけだ。純日本人がインドネシア人から空手を習って、このまま日本へ帰っても続ければ、これは「逆輸入」ということになるのだろうか。 週3回の練習に好きなだけ出られる。きょうも学校のあと練習に行くと言って、まだ真っ白な胴着を持ち、美葉子は元気に出かけて行った。

三人の母(Jul ’01)

今回バリへ帰ってくる時は、しのぶさんという私の20年来の友達といっしょだった。福岡に住む彼女と関西空港で待ち合わせた後、ほぼ満席のJAL713便で、久しぶりに積もった話をしながらの楽しいフライトだった。

福岡からはあと二人、しのぶさんの友達が来ることになっていた。しのぶさんはJALファミリーなのでJAL便を使うのだが、ふたりはガルーダの直行便で来る。JALと同じくらいの時刻にデンパサールに着き、ホテルはクタのホリデイ・インだ。

その晩は4人で無事落ち合い、海辺のイカン・バカール(シーフード)へ行った。しのぶさんの友達の後藤さん、その友達の樋口さん、私たちはすぐにうちとけて、飲み、しゃべり、食べた。そのうち後藤さんが、国際電話はどうやってかけるのがいちばん安いかという話を出してきた。わずか4泊(うち1泊は機内)の旅行なのに電話が気になるのにはわけがある。

この3人はそれぞれに重度の障害児を持つお母さんなのである。それで今回の旅行も思いきった決断でやってきている。障害児といってもすでに、21歳、19歳、15歳なのであるが、チューブでの食事、痰を取ること、おふろ、おむつなど、だれでも世話ができるというものではない。今回は、しのぶさんの場合は単身赴任中のご主人がもどってきて、後藤さんと樋口さんの場合は、忙しいご主人に代って高校生の娘さんが世話をひきうけてくれたのだそうだ。「いつもは生意気も言うとですけどね、お母さん行っておいでって言ってくれたとですよ」と後藤さん。私はその言葉に胸がつまった。いつもそばでお母さんの大変さを見ているからこその、娘さんのやさしさであろう。

それで電話の話になった時、樋口さんが真剣な顔をして後藤さんに言った。「もし電話して調子が悪かっても、ここではなんにもできんとよ。それなら聞かん方がいい。私は電話かけんとよ」。海外に来てもなお、子どものことが頭をはなれない母親の気持ちがせつなくて、私は言葉が出なかった。でもその後は「せっかくバリに来ているんだから、忘れよう、忘れよう」と3人は言って、またしゃべって、食べて、飲んだ。(でも結局次の日に電話したそうだ。しのぶさんのご主人からは、我が家へ「浩平くん順調」のメールが入っていた)

イカン・バカールのあとはマッサージへ行った。足のマッサージとボディ・マッサージ、後藤さんと樋口さんはきれいな花模様入りのマニキュアもしてもらった。

次の日、後藤さんと樋口さんはアユン川のラフティングへ。急流下りのスリルにふたりははじけたそうだ。テニスが趣味のしのぶさんは、私と私の友人といっしょに、日航ホテルでテニスを楽しんだ。夜はまた4人でケチャックダンスを見て、その後アヨディア・レストランで踊りをみながらジャワ料理。

次の日はウブドへ行ったのだが、後藤さんと樋口さんが朝から調子が悪く、とくに樋口さんは冷や汗も出てきたので、早めにクタへもどった。2人が同じ時間から同じようにおなかの具合が悪くなったのは、前の日のラフティングで食べたビュッフェが悪かったのかなあ、と話した。でもおみやげも買えたし、トゥガラランのカンプン・カフェではライステラスから吹く涼しい風に、みんなしばし浮世を忘れた。

その夜、結局樋口さんはホテルでダウン。私たちもお腹に優しいものをと日本食レストランへ行き、私の夫も加わっていっしょに和食を食べ、樋口さんにもおにぎりを作ってもらった。せっかくのバリなのに樋口さんがかわいそうだった。

しかし最後の日はふたりとも回復した。よかった。もう大丈夫というので、じゃあきょうは何がしたい、と聞くと、もういちどマッサージということだった。うん、それもいいねということになって、先日とはちがうビラでのマッサージに行った。この日はフェイシャルとペディキュアも試して、みんなリフレッシュできたようだ。樋口さんが「マッサージもペディキュアも、こんなに人から何かしてもらうというのは何年ぶりだろう」と言う。「そうだよね。いつもしてあげる方だものね」と私。

マッサージの後はみんなで最後の買い物をした。後藤さんは留守番の娘さんに頼まれた香水もちゃんと買って、しのぶさんは浩平くんのシャツを買った。その時Tシャツの生地で前あきのシャツがいいというので、みんなでさがしたが、そういうのはなかなかないということがわかった。ぬがせやすい前あきのほうがいいのだが、Tシャツのようにやわらかい生地のものは、日本でも見つけるのが大変なのだそうだ。それでもなんとか1枚見つかってよかった。

JAL713便はほぼ満席状態だった。「だめなら明日にすれば。ご主人も日曜日までいてくれることだし」と私は言ったが、やはり浩平くんのことが気になるようで「乗れます様に」と祈っていたら、かろうじて1席空いていた。それでしのぶさんは一足先にバリを発った。「思いきってバリに来てよかった。これでしばらく元気に頑張れそうよ」という言葉を残して。

後藤さんと樋口さんは夜中のフライトなので、クタの海岸ちかくのイタリアン・レストランで最後の食事を楽しんだ。もう体調も絶好調だったので、海からの風にふかれて気持ちよさそうだった。聞くと、後藤さんは20歳で生んだ長男が障害児だったため「遊ぶ暇もなかった」そうだ。この短いバリ旅行が3人にとってつかの間の休息になったらよかったけど、とふたりの優しい横顔を見ながら私は思っていた。

報復かテロか(Sep 21 ’01)

9月11日、火曜日の夜、ソファーに座ってNHKニュースを見ていた私は、信じられない光景を目にした。かの有名なワールドトレードセンタービルに飛行機が激突している映像、しかもライブだった。そのあとのことは世界中の人達が知っているとおりだ。

夫は空港で勤務、美葉子はロンボク島へ学校からのキャンプ。ひとり家にいた私は、驚きと恐ろしさで、だれかと話さないではいられなかった。夫の携帯に電話をした。「今すごいニュースをやっているけど知ってる?WTCビルに旅客機が突っ込んで、ふたつとも火事になっているのよ。ハイジャックされた飛行機みたい」胸がどきどきしていたが、落ち着いて話そうと努力した。電話のむこうの夫はすぐにオフィスのテレビをつけさせたが、インドネシアのチャンネルは対応が遅く、まだ何もやっていなかった。しかし、インターネットでCNNのサイトを見た夫は「わかった。きょうはなるべく早く帰る」と言って電話をきった。そのあとペンタゴンでもテロが発生し、私はまた電話で報告した。当然のことながらNHKよりもCNNの方がニュースが早く、まるでハリウッドの映画を見ているようだったが、これは本当のことだと自分に言い聞かせなければならないほど、信じられない光景だった。

バリに住むアメリカ人の友人スーザンにも電話した。彼女はまだ何も知らなかった。彼女は私の報告を聞くと、オー・マイーゴッドと言ったまましばらく沈黙したが「わかった。ニュースに気をつけるわ。電話してくれてありがとう」と言った。

次の日、美葉子たちのキャンプは中止になり、3泊のところが1泊でバリへ帰ってきた。 事件が起こったばかりでテロの詳細も犯人もわからない、イスラム原理主義者が関係している可能性もある、ここは世界最大数のモスレムをかかえるインドネシアだ。となると、キャンプのとりあえずの中止は正しい決断だった。彼女達もロンボクのホテルでテレビを見てびっくりしたようだが、CNNは入らない、インドネシアテレビはまだやっていない、ニュースを伝えているのはフランス語放送だけで、先生たちが「だれかフランス語ができるやつはいないか」とさがしたそうだ。そのうちインドネシアの放送局でもニュースを流したが、数分やったあとにすぐにスポーツニュースになり、美葉子たちはみんなで怒ったということだった。

マスコミの取り上げ方はそれぞれだった。CNNやCNBCが一番緊迫して放送するのはもちろんだが、TVRI(インドネシアテレビ)は緊迫度が少なすぎる様に思えた。それとも情報の収集手段が劣っているのだろうか。NHKは慎重に放送している感じがしたが、ビルが崩壊する瞬間に、CNBCのレポーターが「オー・マイ・ゴッド」と泣き叫んでいるのに、NHKのレポーターは「ビルがくずれています」と冷静すぎたのには驚いた。それから「このテロはパレスチナ解放戦線による可能性がある」と未確認情報を流してその後訂正したのは、BBCだったそうである。NHKでも「アメリカはテロをうけて当然だ」とテロを喜んでいるアラブの人達を映し出していたが、これは誤解を生むと思った。一部の過激な人達や、便乗して騒ぐ者はそういう態度を取るかもしれないが、それを放送すると、まるでアラブの人達全体が喜んでいる様にとられるではないか。あれやこれやで、マスコミが大衆に与える影響の大きさと怖さを想像してしまった。

事件が起こった当夜、大阪に住む大学生の長男が「テレビ見てる?大変な事になったね」と電話してきた。次の日のメールではやはり大学生の長女が「アラブの友達が変な目で見られてかわいそう」と言ってきた。長女はアラビア語とアラブ研究を専攻しているので、アラブの友達も多く、夏休みにもチュニジアへ短期留学してきたばかりなのだ。この事件は始まったばかりという感じがする。これからどういう方向へ進むのか、子ども達の世代もしっかり見て考えてほしいと思った。美葉子の学校ではシェアタイムというみんなが集まる時間に、校長先生が事件の話をされ、みんなで黙祷したということだ。アメリカ国籍の子達も含めて30もの国籍が混ざっているインターナショナル・スクールだ。これからの時代をになう子どもたちが、しっかりと現実をみつめ、どういう世の中を作っていかなければを話し合い、議論しあってほしいものだ。

いや、その前に大人はどうするのだ、という問題だ。CNNのタイトルは’Attacks on America’から’New War’に変り、今は’Against Terror’と攻撃的に変ってきている。ブッシュ大統領は、国連を介さず直接各国首脳と会談して彼らを味方につけ、それ以外の国に対しても「アメリカにつくか、テロリストにつくか」と二者択一をせまっている。日本もアメリカ支持を強く表明している。アメリカ国民の間には戦争支持の一色ムードが強く、多くの犠牲者もあって、国全体がパトリオティズムに陥っている。アメリカ国民の中から「ちょっと待て」という声はほとんど聞こえてこない。ブッシュ大統領は「これはアメリカとテロリストとの戦争だ」と言っているが、テロリストだけ選び出してどこか別の場所に運べれば可能かもしれないが、市民の中に混ざっているテロリストをどう殲滅しようというのか。それに、あるテロ組織をつぶしてもまた新たなテロ組織を生むことだろう。世界を舞台にした報復合戦になったら、核兵器や化学兵器を使った戦争になったら、と考えると一国の存続にとどまらず、世界の存続もあやうくなる。

これが100年前に起きたことなら、有無をいわせず戦争に突入したことだろう。しかしこの100年間、世界は悲惨な戦争を繰り返してきた。その反省をだれもが持っているはずだ。そこで反省と知恵を生かさなければ、また同じことの繰り返しになってしまう。

アメリカはいつでも「自分は正しい」と思っていないだろうか。これまでのアメリカの態度に、このような事件を引き起こす原因がなかっただろうか。他国に「アメリカの報復に味方をしなければあなたはテロリストだ」と迫るのは横暴過ぎないだろうか。事件に対する哀しみと怒りは想像を絶するものがあるが、ここは冷静に現実的に考える場面だと思う。それが本当の勇気ではないのだろうか。

一週間たってスーザンと話した。彼女はかなり神経質になっていた。観光ビザがきれるのでシンガポールへ出るけど、アメリカ人の私はこのイスラムの国に帰ってこられるかどうかわからない、バリは一番好きな土地なのに、と言って彼女は涙ぐんだ。私は「大丈夫、インドネシアはモスレムの国だけど、バリはヒンドゥーだから」となぐさめた。

そう言いながら、これは正しい、と自分で思っていた。おおかたの宗教は、信者に心の平安をあたえながらも、他を異端視することが多い。ところが、バリのヒンドゥーは寛容だ。神様もひとつではない。あらゆるところに神様がいらっしゃる。自分だけが正しい、という偏狭な思いがないから、クリスチャン、モスレム、仏教徒、だれでも受け入れ、儀式の席にも並ばせてくれる。人間や社会を平和にするのが、本当の宗教なんじゃないかなあ、ととくに宗教的でもない私は考えている。 いずれにしろ、今後も事態の変化から目が離せない。

ナシ・チャンプルとドリアン

「食はアジアにあり」とはよく言われることだが、バリ島に住んでもうじき3年、この言葉を実感している。もちろん日本もアジアの国で、和食の素晴らしさはだれもが認めるところなので、和食を含めて、広い世界の中でのアジア料理という意味である。

ナシチャンプル

ナシチャンプル

私がここで一番好きなのは、ナシ・チャンプルという定食である。ナシはご飯、チャンプルは混ぜるの意味で、お皿の真ん中にご飯をのせ、まわりにいろいろなおかずをのせて、混ぜながら(バリの人たちは右手の親指、人差し指、中指の3本を器用に使ってご飯とおかずを混ぜながら食べる)好きなように食べるのだ。沖縄にもチャンプルという料理があるが、このふたつのチャンプルはきっとどこかで関係あるにちがいない、と考えると楽しくなってくる。

さてそのナシ・チャンプルを食べる時は、町の食堂のショーケースに並べられた、肉、魚、卵、野菜などのおかずの中から、好きな物を指差して少しずつ入れてもらう。紙に包んで持ち帰りもできる便利な食べ物で、100円前後で食べられるし(選んだものによって値段が異なる)、何よりおいしい。たとえば鶏肉はココナツカレー風味のスープで煮てあることが多いし、牛肉はスパイスの中で煮てある。イスラムの人もいるので豚肉はほとんどない。魚は丸揚げにしてスパイスソースがからめてある。野菜は豆、もやし、白菜、ナス、じゃがいも、人参、苦うりなど種類は多く、細かく切って炒め煮にしてあることが多い。他にえび、ゆで卵、豆腐、テンペ(大豆の発酵食品)、コロッケ、焼きそば、さつま揚げ風のものなどなどが日替わりであって、迷いながら選ぶのもまた楽しい。種々のスパイスとココナッツがミックスした味は、不思議と日本人の口にあう。チリ(唐辛子)の辛さは店によって違うが、もっと辛いのを好む人には、サンバルという店特製のチリソースを追加してくれる。こんなに栄養豊富でおいしくて安い定食を、私は他に知らない。

ところでバリでおいしいのは定食だけではない。デザートの果物も豊富だ。年中温暖な気候なのでいつでも果物は取れるが、とくに今のような雨季は果物がおいしい。スイカやブドウ、みかん、バナナなど日本でもおなじみの果物にくわえて、パパイヤ、マンゴー、マンゴスチン、ランブータン、サラック、スリカヤ、ジャンブー、スターフルーツ、ドリアンなど、南国ならではの果物が市場やスーパーに所狭しと置かれている。

ドリアン

ドリアン

なかでも「果物の王様」と珍重されるのはドリアンである。ラグビーボールくらいの大きさでとげとげがあって黄緑色をしている。中は小部屋になっていて、4~5個の部屋の中にそれぞれ2~3個の乳白色の実がつまっている。日本からきたお客さんが、誰もが名前は知っているけど食べたことがない、一度食べてみたいという果物でもある。そして誰もが「でも臭いんでしょう」と怖気づく。確かに臭い。臭う。何の臭いかと言われればドリアンの臭いというしかない。

先日、小泉首相がインドネシアを訪問した時、ドリアンを食べている写真が新聞に出ていた。「うん、これなら臭くない、食べられるね。アイスクリームみたいだ」というのが小泉さんの感想だったと思うが、実は彼がこの時食べたのは輸入ものだった。バンコクから輸入しているドリアンは少し値段が高いが、臭みが少なくクリ-ミーでおいしい。

しかし私に言わせれば、地元の物だってじゅうぶんおいしい。1回目は臭いに負けてあまりおいしいと思わなかった。臭いに圧倒されて味わう余裕がなかった、のかもしれない。でも回を重ねる度においしくなるから不思議だ。もちろん、当たり外れもある。私はいつも市場のおばさんや、スーパーの売り場の人や、家の運転手さんに選んでもらう。うーん、これは当たり、という時のドリアンはたまらない。

では最大のネック、その臭いをどうするか、である。ホテル内にも持ち込みが禁止されているほどの臭いである。家に持ち帰ると家中が臭うので、一度などは勝手口の外に出しておいたら、ここのスタッフがごみと間違えて(間違えたふりをして)持っていってしまった。そこでそれ以降は「外で食べてくる」ことにした。何人かドリアンを食べたいという人がいると、連れ立って市場へ行く。初めての人は結局食べられない、という人も多いので、小さめを選んで切ってもらい、その場で食べて、残ったら市場の人に食べてもらう。市場を背景にドリアンを食べているところを写真に撮れば、たとえドリアンはまずくても、絶好の思い出写真になるというものだ。

ところでこのドリアンの値段だが、バリでも他の果物に比べたら高い。直径20センチくらいのものが、4~5万ルピア(約500円)、安い時でも2~3万ルピアする。もっとも田舎へ行けば5000ルピアだった、という話も聞いたが。いつだか日本の週刊誌で東京の高級果物店に2個だけ置かれたドリアンの写真を見たことがあるが、その値札にはなんと「8000円」と書いてあった。どんな人が買っていくんだろう、と思ったものだ。ここでは路肩に停めた小型トラックの荷台に山積み状態で売られているのに、所変れば本当に「王様」の様に扱われている。はるばる海を渡ったドリアンの気持ちや如何に、というところである。私としては、ドリアンは南国で食べてこそおいしいと思うのだが・・・

ティダッ・アパ・アパ

しばらく日本に滞在したあとバリへ戻ると、いつも濃密な南国の空気と、したたる緑と、人々の笑顔が私を迎えてくれて、ほっとする。なかでも、少しはにかんだバリの人達の笑顔は、人生「ティダッ・アパ・アパ、ヤー(ノー・プロブレムさー)」と言ってくれているようで、思わず「そうよね」と感じ入ってしまうのだ。

今日、バイパスで5人乗りバイクを見た。お父さんが前にひとり子どもを乗せて運転し、お母さんはお父さんとの間にふたりの子どもをはさんで後ろに座る。こんなのを見た日には、バリ人のたくましさを見た気がして、楽しくなってくる。5人乗りはめずらしいとしても、4人は普通、たまに後部座席で授乳しながら走っている肝っ玉母さんもいたりする。事故にあったらどうするの、と思うけど、きっと本人達は、事故の「事」の字も考えてないね。ティダッ・アパ・アパ。

インドネシア人に日本語を教える学校で先生をしている、日本人男性のNさん。2年前まではバリ人の家に5年間居候していたという。なーんにもしないで、ただ居候して食べさせてもらっていたらしい。でも何かしていたんでしょう、と聞いても、本当になーんにもしていなかったのだそうだ。ところがこのNさん、今、学校で生徒たちに大人気。インドネシア語だけでなく、生活で身についたバリ語も話せるし、何より話題が豊富なのだそうだ。まさに「三年寝太郎」を地でいったNさん。そんな生活ができるのもバリならでは。ティダッ・アパ・アパ。

先日、我が家の運転手が娘を乗せ忘れて目的地まで行ってしまった。いったん車に乗り込んだ娘が、忘れ物を思い出して家の中まで取りにもどった。その間、別の運転手との話に夢中になっていた彼は、娘が家にもどったのも知らず車を発車し、20分走って目的地について初めて、後ろにだれも乗っていないことに気がついた。このまぬけな笑い話を友人にしたら、その人いわく「でも逆でなくてよかったね。だれも乗せていないはずなのに、だれかが乗っていたらこわいよ」。それもそうだ。ティダッ・アパ・アパ。

バリのスーパーマーケットで買い物をすると、おつりといっしょにキャンディーを数個渡されることがある。小銭が常に不足していて、100ルピア(約1.5円)単位のおつりならキャンディーで返してくるのだ。つまりキャンディー1個が100ルピアのかわり。100ルピア以下になると、もうお互いに暗黙の了解で、適当に四捨五入して払うことになる。しかしこんな小さな金額でもチリも積もれば山となると思うのだが、そのへんはどこで帳尻を合わせているのやら。ティダッ・アパ・アパ。

バリではいまだに呪術師(ドゥクンという)が大きな役割を果たしている。なかなか治らない病気や困り事があると、人々はドゥクンの所へ出かける。バリ人の友人S君の話。ある日突然声が出なくなった。何か話そうと思うのだけどなぜだか声が出てこない。そこでドゥクンを訪ねてお祈りをしてもらうと、何とドゥクンの声がS君の友人の声に変わった。それでわかったことは、友人がS君の出世をねたんで呪い(ブラック・マジック) をかけたらしい。ドゥクンの御祓いの結果、S君の声はもとどおり出るようになったそうだ。ティダッ・アパ・アパ。

この手の話はいくらでもある。友人のところのお手伝いさんの話。だんなの浮気がどうしてもやまないというので、親族で相談した結果、悪いものがとりついているということになり、ドゥクンのところへ行くことになった。お手伝いさんとだんなさん、それに子ども達までいっしょに御祓いをしてもらいに行ったというのだが、その後、ご利益があったかどうか、はまだ聞いていない。ティダッ・アパ・アパ。

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