ごあいさつ

神々が棲む島バリ島。かつて店主夫婦は転勤のため4年間バリ島に住みました。いつ訪れても、やさしく迎えてくれるバリ島の魅力をお伝えしたいと思います。バリ島に興味がある方、どうぞいつでもお話しにご来店ください。インドネシア語も少しは教えられますよ。バリ島で旅行社、ヴィラ、エステなどを経営する、家族同様の友人のサイトをご紹介します。

バリ島専門旅行会社パルテンツァ http://www.partenza.jp/

ヌサギアグループ http://www.nusagia.com/

バリ人の入学試験 (Aug ’02)

先日、我が家に10人ばかり集まった時のこと。「東京オリンピックの頃何していた?」とか「大阪万博の頃何歳だった?」という話になった。20代から50代まで、日本人とインドネシア人が混ざっている。「中学校の体育館で、授業中にテレビのオリンピック放送を見たなあ」とか「まだ生まれていなかったですよー」など、さまざまだ。

1970年代の話になった時、「スカルバはもう学校へ行っていた?」と聞かれて、「いやあ僕、学校へ入るのが遅くて、8歳でしたからねえ」と日本語が達者なスカルバ君が答えた。すかさず、私の夫が「えーっ、スカルバ頭が悪かったんだ」といつもの茶々を入れる。「いえいえ」。「じゃあ、お金がなかったの?」。「いえ、そうじゃなくって、僕ね、これができなかったんですよ」と言いながら、スカルバ君は、右手を頭の上から回して左耳をつかんだ。一同「???」の後、大爆笑。「何だそれ?」。しかし、もう一人のインドネシア人アニーちゃんと、バリ人の夫を持つ久美子さんは納得顔だ。聞くと、アニーちゃんは普通に入学したようだが、久美子さんの夫のヌリタさんは、やはりこれができなくて2年遅れたらしい。ちなみにこの3人は年代的には同じ30代半ば。地域的にはスカルバ君はバリ西部のタバナン、ヌリタさんはバリ北部のシガラジャ、それにアニーちゃんはスラウェシ島のメナド出身だ。

つまり、こういうことだ。バリに限らずインドネシアでは、小学校へ入る目安として、「右手を頭の上から回して左耳をつかむ」(おそらくその反対の手と耳でもかまわないが、頭の後ろを回すというズルをしてはいけない)という動作をやらせたのだそうだ。これができないと、まだ小さいね、もう少し大きくなってからにしようね、ということになったらしい。さすがに現代ではもうないそうだが、それでもテレビの乳飲料コマーシャルでは、男の子がこの動作をしながら「マー、スダ、サンペー、ヤ!」(ママ、もうできるよ!)というのがあるらしい。ということは、この動作は、外国人が見たら何のことやらわからないが、インドネシア国民にとっては共通理解を持って今なお生きているものなのだ。

それにしても、なんとものどやかでおおらかな話ではないだろうか。私はこの晩はこの話が楽しくて楽しくて、何度も思い出し笑いをしてしまった。もっともみんなで推察した結果、この不思議な入学試験については、他のいくつかの理由もあがってきた。ひとつは、学校不足。増加する人口に教育施設が追いつかなくて、現在でも朝、昼二部制を取っている小学校も少なくない。もうひとつは、誕生日がはっきりしないこと。少し前までは、出生届などもちゃんと整備されていなかったため、自分の誕生日がはっきりわからない、という人がかなりいる。そんな人たちはあとで誕生日を決めるのだが、なぜか6月6日にする人が多い。

「這えば立て、立てば歩めの親心」を持つ日本人ならば、おそらく6歳の誕生日を過ぎた頃から、せっせと子どもにこの練習でもさせたことであろう。ところがインドネシアの人たちは「ブルム、ヤー」(まだだねえ)などと言いながら、もう1年様子を見たのであった。

バリの涙(Oct 17 ’02)

信じられないことが起こってしまった。一番暴力から遠かったバリ島が暴力の犠牲になった。事件から5日、日に日に悲しみが増してくる。何もする気が起こらない。これだけひどいことをされても、なぜかバリ島の人たちは怒らない。ただ静かに運命を受け入れているのがまたせつない。

10月12日の土曜日の夜、11時頃ベッドに入った私はまもなく上のほうで「どんっ」という音を聞いた。何だろうと思いながらそのまま眠ったが、翌朝6時半に会社の運転手からの電話で起こされた。「昨夜クタで爆発があって5人くらい死んだようだ。けが人も多くバリの病院はいっぱいになっているらしい」。この時ねぼけまなこの私は事の重大さを微塵も感じていなかった。「それで?あなたが出勤できないっていうわけ?できる?うんじゃあいいわ」。しかしその後刻々と入ってくる情報で眠気もふっとび、1日中NHKとCNNとTVRIの3チャンネルを順番にさまようことになる。

テロ爆弾が爆発したのはバリの繁華街クタのレギャン通り、「サリクラブ」というオーストラリア人に人気のあるディスコの前だった。我が家からは車で30分くらいかかるが、クタをぶらぶらショッピングする時には必ず通る道だ。近くには「パディズ」や「アパッチ」という若者に人気のディスコもあり、我が家の長男をはじめ日本から来た若者たちがよく泊まるロスメン(安宿)もすぐ近くだ。そのことに気がついた時、私は背中がぞっとする思いだった。今我が家にだれも若者が来ていなかったことは幸いだった。次に、6月まで美葉子が通っていたインターナショナル・スクールのティーン・エイジャーたちが親の目を盗んで徘徊するところだと気がつき、また彼女の友達アニタの家がすぐそばだったことも思い出して、すぐ美葉子に電話をして確認するように言った。幸い、友達はみんな無事だとわかってほっとした。

夫は休日だったが情報を集めに会社へ行ってしまった。テレビを見ていると状況はどんどんひどくなっていく。落ち着かなくて何人かバリの友達に電話し、また何人かから電話がかかってきた。とりあえずまわりの友人は無事だった。日本からも実家や友人から「大丈夫?」という電話がかかってきた。しかしこの時点ではまだ日本からの電話やメールは少なく「ねえ、みんなあんなにバリに感激して帰ったのに、何も言ってきてくれないなんてねえ」と私は自分のためではなくバリのためにぐちをこぼしていた。後になって、この日日本は連休中日の日曜日だったため、みんなニュースを見るのが遅かったことがわかった。次の日には朝刊を読んだ人たちが次々に電話やメールをくれた。そして私は、こういう時のお見舞いの言葉がどれほど嬉しいものかを身にしみて感じたのだった。常日頃子どもたちに「お礼の言葉は早いほどいい」と教えているが、これに「お見舞いの言葉」も付け加えなければならないだろう。

インドネシアのテレビの映像は残酷だ。死者の顔、吹き飛んだ身体の一部まで映し出す。病院の廊下にころがされた死体も写す。その死体を踏み越えて関係者が歩く。「死体をまたぐなんてひどい」と思わずつぶやくと、夫が「日本でも修羅場になるとそういうこともあるかもしれないけど、テレビが写さないよな」と言う。そうだ、死者に対するプライバシーがないのだ。友人のスーザンも同じ事を言っていた。「私が死んだらまず肉親に見て欲しい、テレビの視聴者ではなくて」と。

この悲劇に対する西洋人の対応は実に早かった。オーストラリア政府は2日後すぐに軍用機を送って来てけが人を本国へ移送し、民間機をチャーターして旅行者に帰国を促した。今回日本人の被害者は数としては多くはなかったが、もし多かったときこのオーストラリアのように迅速な対応ができただろうか、と思った。またボランティアの動きも早かった。インターナショナル・スクールからのメールでは「大変な悲劇だが、今はとにかく生存者への援助を」としてボランティアを募っていた。私も自分に何ができるかと考えたが、どう動いていいかわからなかった。日曜日に近くの友人の旅行代理店に立ち寄って話した時、彼の携帯メールに「血液が足りない」というメッセージが入ってきた。ふたりで「行こうか」という話にもなったのだが、病院は遠くすでに夜で出かけるのに恐怖心があったためとりやめた。そうしているうちに次の日には「血液は十分」という情報が入ってきた。そんなこんなで何もできないでいる時、日本人会女性部の友人から、病院に問い合わせて白のシーツまたはお金が必要ということがわかったので募集するという電話があった。彼女はクリスチャンなので、教会から迅速な協力依頼があって、衣類や水を届けたそうだ。こういう場合の機動力は、私も含めて日本人は、とくに海外においては全然だめだなあと反省した。

4日目に補習校のインドネシア語講座で会ったSさんから聞いた話はこわかった。Sさんはヨガの先生をしている日本人女性で、いつも明るく活動的で面倒見のよい人だ。彼女は現場からすぐの所に住んでいるので爆発音のあとかけつけたそうだ。「私もずいぶん修羅場をみてきているけど、すごかったよ。手のない人、足のない人、身体が4倍くらいにはれ上がっている人もいて、もう地獄」ここで彼女は言葉をつまらせた。そして「病院へ行って血を3本採ってもらったよ。私O型だからだれにもあげられるの。針?いいのよ、病気がうつったって。私の方がうつしていたりして、ハハ」。バリの病院では、とくにこんな混乱時は注射針の安全性も疑わしく、それも私が恐れていたことのひとつだった。それをこともなく話すSさんはすごい、すぐに行動するSさんはすごいと思った。

その日の夕方、現場の近くで日本食レストランを営むMさんから、夫のところへセールスコールがかかってきた。だれも客が来ないのだという。それで私たちは夕食を食べに出かけることにした。聞くとMさんのご主人、バリ人のプトゥさんは事件の5分前に現場を通って帰宅したそうだ。「助かってよかったねえ」と言いながら、本当に人間の運命はわからないと思った。この店はまだ新しく丈夫だったためか、一部ガラスが壊れただけですんだが、周りの店はショウウインドウが粉々に壊れ、掃き集められていた。現場の周りは日本人のお店も多く、けがはなかったものの、店の崩壊、ガラスの破損、商品の盗難など被害も多かったらしい。ある人は「これでしばらく客も来ないし、ガラス屋に転職するかなあ」と溜息混じりの冗談を言っていた。食事をすませて激励した後店を出たが、通行止めになったレギャン通りをチラッと見ると、真っ暗でとてもレギャン通りとは思えなかった。

バリに住む日本人は一様に衝撃を受けている。ホテル、レストラン、旅行代理店、商店、スパ、それに夫のように航空会社など、いずれも観光客あってこその仕事に携わっている人々である。これで観光客はがた減りだろう。危険度もひとつあがり「渡航の是非を検討してください」になった。日本の大手旅行代理店は、21日までのパック旅行をキャンセルチャージなしですべてとりやめた。アメリカのテロの時にも観光客が大幅に減少したが、それでも所詮「彼の地」のことであった。しかし今度は直撃だ。影響は計り知れない。個人で旅行代理店を営む友人は「だんだんブルーになる。明日からどうやって食っていこう」とつぶやいていた。

確かに仕事が減る、収入が減る、というのは大きな問題であるが、私にはみんながもっと大きな悲しみをかかえているのがわかる。それは損得を超えた悲しみだ。バリで仕事をしている人たちは、バリが大好きだからここにいるのだ。そのバリが大きな暴力の犠牲になってしまった。何も悪くないのにいためつけられてしまった。「心を癒してくれる島」を明らかにねらった悪魔のような暴力だ。私も含めてみんな、自分の大切な心の棲家をむちゃくちゃにされてしまった、という気持ちでいると思う。そして、こういうことがあって、あらためて自分たちがバリを愛していたことを認識するのである。

バリの人たちがどう感じているのかは、私にはもうひとつよくわからない。もともと感情が穏やかで怒らない人たちだからである。外から持ち込まれた暴力も、運命として静かに受け入れているように思えてやりきれない。

インドネシア政府はアルカイーダを始めテロ組織と対決することを表明した。これでインドネシアには新たな緊張が生まれるだろう。またアメリカはイラクへの攻撃を行おうとしている。今やどこにいれば安全という時代ではなくなった。「世界の楽園」といわれたバリ島をねらったのは、そのことを示したかったのだろうか。卑劣な暴力だ。

爆心地(Oct 23 ’02)

事件が起こって10日目に初めてそこに足を踏み入れた。レギャン通りの南の端、ベモ・コーナーと呼ばれる場所から北へ向って歩く。「サーファー・ガール」があるあたりまでは被害も軽かったようで、店を開けてはいるが、開店休業状態で、店員が所在なさそうに私たちをながめている。

歩くにしたがってみんな寡黙になっていく。普通ではない雰囲気なのだ。太陽がぎらぎらと照って暑くてしかたないのに、シーンとしていて空気は冷え冷えとしている気がする。この道を多くの人たちが恐怖で逃げ惑ったのだなあと想像してみる。せまい道だ。きっと車も人もパニックだったことだろう。怖かっただろう。笑いさざめきバリのホリデーを楽しんでいた人々は、何が起こったのか理解できなかったにちがいない。若者が多かったという。日本人で犠牲になったご夫婦は、結婚以来毎年バリを訪れていたそうだ。優しいバリを愛する優しい人たちが、一瞬にしてわけのわからない暴力の犠牲になったことが、悲しいでも悔しいでも腹立たしいでも足りない、たまらない気持ちにさせる。理不尽の極みだ。

ふと見ると「マカロニクラブ」が看板だけを残して無残な姿を見せていた。日本から来た長女が友達とよく行くカフェで「いい店だよー」と言っていたのを思い出し、彼女がこれを見たら悲しむだろうなあ、と思った。右を見ると「パディズ」も残っていない。バリ在住のティーン・エイジャーたちが、親に「夜遊びはだめ」と言われながらも踊りに行く場所だった。我が家の次女も友達とそのお母さんに連れて行ってもらったことがあり「踊るって楽しいー」と話してくれた場所だ。その斜め前が爆心地の「サリクラブ」。残った鉄骨が怒っているかのように空へ向って突き出ている。隣のショップ「アロハ」も、看板に店の名前を半分だけ残して、悲しい姿になりはてている。

その前にたくさんのお花が供えられていた。聞くとこの場所にたくさんの遺体が積み上げられたのだそうだ。180以上の積み重ねられた遺体をだれが想像できるだろうか。私はそれを考えようとしてできず、ただただ気持ちが萎えるのを感じた。スダップ・マラムという、夜にだけいい香りを放つバリの花をそこに置き、手を合わせた。この香りはもう亡くなった人たちには届かないかもしれない。でも、生き残った私たちがこの人たちのためにできることがあるとしたら、それはこんな愚かしい残虐行為が二度と起こらないように、努力することしかないのではないか。サンラー病院では、今も遺体確認作業が続けられていることだろう。DNA鑑定に持ち込まれる遺体もたくさんあるという。現場の焼け残った柱に貼られた、行方不明者捜索の写真が痛ましい。180名を超える犠牲者の霊が、バリの優しい風によって少しでも慰められるよう、祈らずにはいられない。

バリの悲劇

10月12日午後11時すぎ、「地上の楽園」といわれたバリ島でテロによる爆弾事件が発生し、185名の死者と300名を超える負傷者が出た。場所はバリ島いちばんの繁華街クタ地区で、おりしも土曜の夜、各国からのツーリストに加えてバリに住む外国人たちもパブに集い、南国の夜をエンジョイし始めたばかりの時間であった。クタからレギャンに続くレギャン通りは夜になると活気づく。爆弾が仕掛けられた「サリクラブ」はカウンター以外はテーブルを置かず、400名くらいは踊れるだろうというディスコで、おもにオーストラリア人に人気があった。

あとから聞いたり読んだりした話によると、現場はすさまじい状況だったらしい。爆風で人は飛ばされ、身体はばらばらになり、飛んだガラスが人につきささり、それでも命からがら脱出した人は近くの車やバイクに救出されたが、火に巻かれた人たちは鎮火して発見された時は身元を確認できる状態ではなかった。クタ地区の住民たちは、ばらばらになった遺体を収容する作業を黙々としてこなしていった。恐ろしいという感情はどこかへ行ってただ義務感から動いたと、あるバリ人は言っていた。今こうして書くだけでも躊躇してしまう私は、実際に現場を見てしまっていたら、今ごろこんな文を書ける心境ではなかっただろうと想像する。

現場から車で30分のところに住む私は、翌朝までこのことを知らなかった。しかしまもなく世界的に大きなニュースとなり、驚いた日本の家族や知人から電話やメールが入ってきた。いっぽう私たちは現地の友人たちと安否を確認しあった。この頃の気持ちは「どうしてバリが?」「バリだけは大丈夫だと思っていたのに」「これからバリはどうなる?」。いやその前に「今何をすればいいのか」。こういう時の欧米人の対応は早い。いちはやくボランティアが国立病院の中にブースを構え、身元不明者の確認作業に入ったという。その他献血、消毒用アルコールの提供、シーツの提供など、病院と連絡をとりながら「今必要なもの」をメールなどで呼びかけた。

バリ日本人会も遅ればせながら、シーツ提供あたりから活動に加わった。いくつかのプロジェクトチームに分かれて作業に入った。領事館に協力して日本人の安否確認作業をするチーム、病院での通訳ボランティア、シーツと募金を集めるチームなどである。私もバリ在住の日本人に安否確認の電話をかける作業に加わったが、さいわいに在住日本人の中には犠牲者はいなかった。だれもが「大変なことになりましたね。私たちは大丈夫です。他の方はどうですか」と一様に不安を募らせ、しかし領事館から日本人会を通して電話をもらったことに心強さを感じていたようだった。数日後、残念なことに日本から観光で来ていたご夫婦がなくなられたことが判明した。

事件発生から10日目、日本人会から約80名が花を持って「爆心地」を訪れた。雨季に入ろうとする蒸し暑い日で太陽が照りつける真昼なのに、その場所に近づくにつれてひんやりとした静寂と冷たさを感じるのはなぜだろうか。遺体が積み上げられたという場所に花を供えて手を合わせると、あまりに理不尽な最期を迎えた多くの若者たちの無念さが伝わってきて涙があふれてくる。テレビのニュースや新聞とちがって、現場には現場にしか伝えられない何かがあることをこの時感じた。この次の日、頭痛がして寝込んだという人たちが何人かいた。

塩の華クサンバシリーズ

,お供え(チャナン)

国民の9割がイスラム教徒といわれるインドネシアの中で、バリ島だけはそのほとんどがヒンズー教徒である。バリにはあちこちに神様がいらっしゃるので、人々は毎日毎日数十ものお供えを作っては供える。ヤシの葉をさいて編み、その上にご飯、果物、お花などをきれいにのせたお供えはチャナンと呼ばれ、まるでおままごとのようにかわいい。美しいお供えを供える女達の姿もまた美しい。またバリヒンズーは他の宗教に対して寛容である。事件後、実行犯とのつながりを指摘された「イスラム過激グループ」から恨みを買う謂れは何も無い。ただ世界有数の観光地であるがゆえに、また西欧人が多く集まる場所であるがために、たまたまテロの場所に選ばれてしまったのである。

こんな場合、まったくの被害者であるバリの人々は、このテロに対して十分に怒っていいはずである。平和な島をずたずたにしてしまった外からの暴力に対して、復讐すら考えてもいいところである。ところがバリの人たちはそうではなかった。その考えはこうである。「世の中には(あるいは人の心の中には)常に『善』と『悪』が共存して互いにせめぎあっている。このバランスを保つことができるのは『祈り』である。今回のテロでは『悪』が『善』を凌駕してしまった。我々の祈りが足りなかったからだ。祈りが足らなかったところにつけこまれた。しかし我々は『悪』に報復する必要は無い。彼らはかならずカルマ(因果応報)によって罰を受けるからだ」。ここにきてなお、自分たちの祈りが足らなかったと反省するバリヒンズーの謙虚さを、自分たちだけが善で相手が悪と決めつけるどこかの指導者たちに教えてやりたいものだと思う。

バリ島はその収入源の多くを観光に拠っている。今回の事件で観光客は激減した。ホテルの集客率は直後は5~7パーセントにまで落ち込んだ。シャッターを下ろす店もあり、開けている店も開店休業状態だ。失業者も増えた。今、バリの人たちはじっと我慢をしているところだ。彼らは我慢強い。そして悲観的にならない。事件直後は放心したような表情だった人たちも、いつもの笑顔を取り戻してきている。怒らず、あきらめず、助けあいの精神を持つバリの人たちは、必ずもとのバリ島を復興させる底力を持っている、と私は確信している。

バリ日本人会でも「バリ在住の元宝塚スター姿月あさとさんのチャリティーコンサート」に続いて「家族呼び寄せキャンペーン」「南の島に雪が来る」「日本語スピーチコンテスト」などなど『がんばろうバリ』キャンペーンを計画中だ。今こそバリを訪ねて欲しい。あんな悲劇のあとにも、いつもと変わらぬ毎日のお供えつくりをしながら、穏やかにそしてたくましく暮らしているバリの人々の姿を見て欲しいと思う。

さよならバリ島(Mar ’03)

4年間住んだバリ島に別れを告げる日が近づいてきた。今は、バリを離れる寂しさと、また日本で子どもたちと一緒に住める楽しみと、日本の生活にちゃんと戻れるかという不安とが入り混じっている。

人生50年を過ぎると、来し方を振り返る回数が増えてくる。夫が転勤族であったため、結婚以来引越しを繰り返してきた。そしてそれはいつのまにか慣(ならい)性となり、自分の人生はこういうものだと思うようになった。結婚した時が東京、そのあと成田、横浜、クウェート、大阪、北海道、そしてまた大阪、次にインドネシアのバリ島へ来た。このあとは夫の故郷である名古屋へ戻ることになっている。夫のサラリーマン生活最後に故郷へ戻るとは、何か因縁めいたものを感じている。故郷にひとり住む義母の余生を慈しめということなのかもしれない。

各地に住んでみて思うことは、気候、言葉、食べ物、人柄など、「ところ変われば」の特性に対して、ときには自分を合わせ、ときには反発しながらも、最終的にはたくさんよい思い出をもらったなあ、ということである。バリ島の4年間もやはりそうであった。

バリ島ではすべてが、ゆっくり、のんびり、あせらない、少しの失敗はディダッ・アパ・アパ(インドネシア語でノー・プロブレムの意味)である。最初の頃、スーパーマーケットのレジで買い忘れに気がつき、あわてて商品を探しに店内を走りながら、うん?と気がついた。走っている人なんかだれもいない。ここで走るのは、何か大変なことが起こった時だけだ。レジも客もゆっくりと待っていてくれる。仮に商品に値段がついていなくて、レジの人が調べに行く時でも、彼らは決して走らない。ゆっくり、ゆっくり、そのへんの店員たちとしゃべりながら戻ってくる。逆にこういうことに対して、私たちは怒ってはならないのだ。

経済効率を重視する社会に慣れてしまったわれわれ日本人からすると、あまりにとろくて最初はびっくりするが、「本当にねえ、バリ人はしょうがないわねえ」などと言いながら、でもその非効率性を楽しんでいる、少しうらやましがってもいる、少なくとも世界のどこかにそういう社会を残しておいてほしい、と思っている自分がいる。

先日、日本から来た友人ふたりといっしょに、クサンバというところにある塩田を訪ねた。バリに来てから二度ほど訪ねたことがある。黒い砂を利用して海水を撒き、砂を集め、濾過し、天日に干して自然のままの塩を作るところである。日本に紹介されることもあるが、辺鄙なこともあってまだ観光コースにはなっていない。だから看板などもなく、道路から海に向かって入る道が見つからなくて、運転手のダルサンが何度も道を聞き聞き、やっとその浜辺に着いた。

日本人3人が歩いて来るので、浜辺にいた4、5人がじっとこちらを見ている。「こんにちは。元気ですか。塩田を見せてもらってもいいですか」とインドネシア語で尋ねると「いいよ、いいよ。買っていく?」とにこにこしている。「どうやって塩を作るのか教えて」と頼むと、褐色に日焼けしたおじさんのひとりが「いいよ、見本を見せてあげる」と言って張り切った様子でモッコをかつぎ、30メートル先の海まで行って海水を汲んできた。それを砂の上に振り撒く。ふたつのモッコを揺すりながら均等に撒いていく姿は年季が入っていて、誇らしげでもある。「重いんだよ、これが。毎朝8時から50回くらい撒いて、10時にご飯を食べるでしょ。それから12時くらいに砂を集めて小屋に運ぶのさ」。掘立て小屋の中には濾過する桶と濃くなった塩水を貯めておく桶が並んでいた。この濃くなった塩水を外の受け皿(木をくりぬいて黒いシートが敷いてある)の中に入れ、一気に強い日光に曝すと、半日くらいで塩が結晶となって生まれてくるというわけだ。人工的な手法を一切加えない。太陽によって生まれてくる白い結晶は、ざらざらとしていて、自然が作り出す美しさを持っている。実際にこんな様子を目にすると、クサンバの塩がなぜおいしいのか納得できるというものだ。

塩の華クサンバシリーズ

塩の華クサンバシリーズ

友人のひとりが、日本から持参したクサンバ紹介の雑誌の切り抜きを見せると驚いて「へえ、こいつはオレの親戚だよ。でも塩はうちの方がいいよ」と言う。その切抜きを彼にあげてね、と渡した後、われわれも塩を買うことになった。3人で10キロ買うことになった時、そばにいた人たちがにこにこしながら「オレは2キロ」「オレも2キロ」と言う。「え?あなたたちも塩を買うの?だって作っているんでしょう?」と言いながら「これはもっと買わせようという戦術かな」と警戒したが、よく聞いてみると「10キロをひとりの人から買わないで、オレからもオレからも買ってね」ということだった。それはそうだ、と私たちは3つの小屋に分かれて塩を買った。1キロおまけしてくれたうえ、運転手にも1キロくれた。

そのあとみんなで記念写真を撮ってわれわれは車へ向かった。大量の塩を抱えて車まで送ってくれた人たちはしじゅう笑顔で「またおいでね。もし来る時はきょう撮った写真を持って来てよ」といいながら手を振ってくれた。友人が「いい人たちだね。今度来る時は洋服のお古でも持ってきてあげたい」と言う。確かにぼろぼろで穴があいたようなシャツを着ているが、この人たちはあまり「新しい服がほしい」などと思わない人たちなんだろうなあと思った。毎日炎天下で塩水を汲み、撒き、濾して、干して、わざわざ日本人が買いに来るようなうまい塩をつくることに、喜びと誇りを持っていて、いい生活をしたいとか、穴のあいた服が恥ずかしいといった気持ちはあまり持ち合わせていないのではないか、と思う。ちょっとモーターをつけてホースで汲み出せば海水も楽に撒けるだろうに、とつい思ってしまうのだが、モーターにいくらお金がかかるか、そうすることによって人手が何人不要になるかを考えると、やはり今のままでいいのである。きょう会った底抜けにひとのいいおじさん、おばさんの笑顔があまりに素晴らしくて、私は幸せな気持ちだった。夜眠る前も思い出して思わずひとりでほほえんでしまうほどだった。

この4年間で、こういう「いい笑顔」に何回出会ったことだろう。同じインドネシアでも、ジャカルタのような大都会ではなかなかこういう笑顔には出会えない。バリでは大人も子どももよく笑う。私は、「笑う」という行為は人間の「幸せ度」を測るバロメーターのひとつだと思っている。別の言い方をすれば、「怒る」ことが少ない。家の中では怒ることもあるのかもしれないが、少なくとも人前で大声を出して怒ることはない。

これはひとえに、村社会を維持しているバリの生活体系によるところが大きいだろう。共通の寺を持つ町内会のようなものがあって、結婚式、葬式、新年、お盆、満月、その他もろもろの行事が助け合いによって行われる。行事だけでなく日常の生活も助け合いであるから、貧しくても飢えることはない。だれかが食べさせてくれる。プライバシーもなくてなんかわずらわしくないのかなあ、と疑いの目で見てみるが、行事を執り行なう人々はみんな楽しそうである。怒りを抑え、人より抜きん出ない性格は、こんな集団生活の「和」を保つために自然に身についたものなのかもしれない。

もちろんバリ人を語る時にはいいことばかりではない。のんびりしているということは、仕事社会では能率が悪いということだし、ホテルやお店でも社員教育ができていないから、すぐに客の要求が満たされない、聞いてもわからない、自分でやった方が早い、責任をとらないなどなど、顧客側としては不満なことがいっぱいある。しかしこれを不満として、「社員教育セミナー」かなんかでマニュアル社員を作ったとしたら(きっとそれは不可能に近いけど)、逆にバリの魅力は失せるだろう。スピード社会、マニュアル社会に疲れた人たちがリゾート地、バリ島に求めるのは、このゆっくり感、なまけてもいいんだよという安心感であろう。

椰子の木より高い建物がないバリ島では、空が広い。思えばバリに来て、日本にいた時の何倍夕日を見たことだろう。何倍月を眺めただろう。何倍風を感じ、鳥の声を聴いたことだろう。プルメリアの花のあまい匂い、お供えに載せられたパンダンの葉の香り、どこかから漂ってくるサテ(串焼き)の匂いなどもなつかしく、私の心の中の記憶となった。今度訪れる時も、バリ島はいつもと変わらず優しく私を迎えてくれるだろう。 ありがとうバリ島。さよならバリ島。